2019.10.02
【Web特別記事】
七種競技・ヘンプヒル恵が戦線復帰
「誰かのため」から「自分のため」に
七種競技日本歴代2位のヘンプヒル恵(アトレ)
今年6月の日本選手権混成を棄権してから、表舞台に立っていなかったヘンプヒル恵(アトレ)が、全日本実業団対抗に出場。100mハードルと走幅跳に出場し、休養を経て着実に完全復活に近づいている姿を見せた。
社会人1年目。どんな思いで悩み、なぜ休養し、そしてトラックに戻ってきたのか。
ケガから復帰も日本選手権を欠場
ドーハ世界選手権開幕が迫る9月20日から22日に行われた全日本実業団対抗。会場にはどこかソワソワした雰囲気が漂っていた。
「このレースを終えたらドーハへ向かう」
「明日の夜の便が多いようだ」
何人かの選手はここを経てドーハへと旅立つ。それは多くのメディアも同じ。
全中を制し、インターハイを連覇し、高校記録も出した。インカレで何度も頂点に立ち、日本記録は3連覇、持ち記録は日本歴代2位。同世代でいち早く日本記録に近づいた存在かもしれない。
彼女にとって初めての全日本実業団もまた、これまで戦ってきた全国大会のように1つの節目となるもの。だが、おそらく過去に迎えてきた節目といえる試合の中で最も注目度は低かった。
走幅跳4位、100mハードル7位の選手。来年に東京五輪を控え、その大舞台へ歩を進めそうな選手への取材が優先されるのは至極当然のこと。
「久しぶりに試合に出られて、ちゃんとここに立てていられることがうれしい」
七種競技のヘンプヒル恵(アトレ)がトラックに帰ってきた。その1歩目は静かに、だが着実に前に進んでいるようだった。
悪夢は2年前にさかのぼる。
中大3年時の2017年は絶好調だった。前年迫られた山﨑有紀(九州共立大、現・スズキ浜松AC)の影を突き放すかのように、日本選手権では5907点をマークして3連覇。アジア選手権でも2位とあと少しで世界選手権の出場さえ見えるところまできた。
中田有紀(日本保育サービス)の持つ5962点の日本記録の更新、そして史上初の6000点突入は時間の問題かに思われた。
そこに落とし穴があった。
冬に急ピッチでスピードを磨いたことで記録が伸びた反動は大きく、土台が未完成のまま作った身体は悲鳴を上げる。目標としていたユニバーシアード(台北)出場に向けての調整中に膝を痛め、戦線離脱。途方に暮れた。
左膝前十字靭帯の断裂、内側半月板損傷と診断され、手術し、リハビリの日々が続く。何度も心が折れそうになりながらも、驚異的な回復力で翌シーズンの春に復帰。ジャカルタ・アジア大会の代表にもなった。
だが、ここでも急いで身体を仕上げた代償が、またもヘンプヒルを襲った。
今年4月のアジア選手権の途中で足首を痛めて途中棄権。5月の東日本実業団で「アトレ」のユニフォームを着て初の大会に臨んだが、痛めた左膝に違和感を覚えた。
中大での4年間は髙橋賢作監督(当時)に師事していたが、大学卒業を機に林田章紀コーチと契約した。そうした指導体制や環境の変化に加え、社会人生活と競技の両立、そして膝の痛みと練習をできないストレス、記録・結果を求められているという強迫観念……。
心も身体も限界だった。
6月の日本選手権混成の前日会見にその姿はなし。大学1年時に初出場初優勝を飾って以来、出場を続けてきた日本選手権を欠場した。
5月の東日本実業団がアトレ所属のデビュー戦。膝に違和感を覚え走幅跳は棄権し、その後は休養することになった
立ち止まり、復帰を決意
「6月はほとんど何もしていませんでした。日本選手権の結果を見たり、日本記録がいろいろな種目で出たりしても、悔しいとも、やりたいとも思わなかった。その中に自分がいることも想像できませんでした」
中学時代は全中、高校生の時はインターハイ、そして大学ではインカレと、その時々で目の前の目標がすべてだった。仲間とともに毎日、精一杯過ごせばよかったし、そうすればおのずと結果が出た。
だが、ケガをして、立ち止まり、振り返った時、自分が誰のために、何のために競技をするのかがわからなくなった。
「このまま気持ちが戻らないなら、陸上をやっていても意味がないんじゃないか」
6月。日本選手権の棄権を決めた時に、こう言ってくれた人がいる。
「膝が痛いのなら仕方がない。でも、気持ちで負けているのなら俺は納得しないよ。人に左右されるのではなく、自分で決めなさい」
昨年12月の内定発表会見の際に同席し、応援してくれていたアトレ取締役会長(当時)の石司次男氏だった。JR東日本の取締役を歴任してきたほどの人物。心を見透かされていた。
「これまで自分で決めているつもりでも、そうではない部分もありました。でも、嫌なこと、苦手なことに対して、自分で選択しないといけない」
ストレートに諭してくれた石司氏は、1ヶ月後の7月15日に逝去。実は長く闘病生活を送り、会長の職も6月に譲って相談役になっていた。
石司氏は「彼女が世界で戦える選手として成長するとともに、競技とファッションを融合させ、混成競技をメジャーにしたい」と語っていた。
会見後、ヘンプヒルが取材を受けている間、再び姿を見せて記者一人ひとりにあいさつしていた。「日本陸上界の宝なのは十分理解しています。ビジネスとして利用するつもりはありませんし、人間として成長していけるよう全力でサポートしたい」。気配りの人だった。
誰のため、何のため。答えは自分で見つけるしかなかった。
昨年12月の内定会見。右が当時取締役会長だった石司氏
ヘンプヒルが目を背けていたことは2つある。
1つは周囲の人たちの距離感。練習環境が変わった中で、なかなか素直に自分の思いを言葉として伝えることができず、その結果、ストレスを溜め込んでしまった。
そんなヘンプヒルに対し、林田コーチは「競技者でなくても、誰でも社会人1年目は苦労するもの」と急かすことはなかった。
休養し、膝の痛みが癒えた頃、林田コーチに思いの丈をすべて伝える。脚の不安、どこを目指せばいいのかわからない葛藤、練習の取り組み方……。
「自分の思っていることを全部話したら、すごく前向きになれました」。考えていたよりずっとシンプルだった。コミュニケーションを取ることで、狂っていた歯車が一気に動いた。
もう1つは「休む」ということ。
「私にとっては休む=なまけている。そう考えていたんです」。練習を休まなくてはいけない自分が情けなく、置いていかれる気がする。ケガをしたことで、「休まなくては」と頭ではわかっていても、なかなか割り切れずにいた。
そこが強さであり、脆さでもあった。
「練習をしっかりと〝やり切れる〟自分と、休養したり少し落としたりする〝客観視できる〟自分の2軸でいないといけなかった。休むことも練習なんですよね」
家族とゆっくり過ごしたり、治療に専念したり。陸上から少し離れた日々。夏には中田有紀とじっくり話す機会もあった。第一人者同士でしか理解し得ないことも多かっただろう。
膝の痛みが消えて全力で走れるようになったのと時を同じくして、精神的にも1歩前進。トラックに戻ろうと自ら決意した。
自分のために限界に挑戦する
練習に復帰して2ヵ月。8月の日体大競技会200mで試運転してから迎えた全日本実業団では、走幅跳で6m05(+1.0)、得意の100mハードルでは予選で13秒62(+1.9)をマークした。
「復帰戦にしてはまずまず。走れていたのでもう少し記録は出したかったです。まだ来年の日本選手権の参加標準記録を突破できていないので、10月の記録会で2試合、七種に出たいと思います。膝も痛くないので、少しずつ前進している感覚はあります」
優勝も、メダルもない全国選手権はいつ以来だろうか。それでも、「脚が痛くなかったのが一番」とその表情は充実感で溢れていた。そして、少しだけ目頭を熱くした。
一度は目標を見失ったヘンプヒルは、どこを目指していくのだろうか。
「今も大事ですが、自分がどうなりたいかすごく考えるようになりました。競技を長く続けるために大事な半年だったと思います。来年だけでなく、その先を見ています。まだ土台ができていないので、しっかり身体を作り上げて、その上で専門的な技術面を上積みしていきたい」
競技に対する考え方は180度変わった。
「これまでは誰かのためにこうしようとか、チームのためにやらなきゃいけないとか、いろいろ考えていました。でも、結局は自分のためですよね。自分が楽しんでこそ、応援してもらえるんじゃないかって」
チームや仲間、応援してくれる人たちのためにやることが成長につながっていたのは事実であり、決してそれは間違ったことではない。だが、1人の競技者として先に進むためには〝自分のため〟が必要だった。
〝誰かのため〟が〝自分のため〟から、〝自分のため〟が〝誰かのため〟に。
それが結果的に周囲に大きな影響を与え、また自分の成長と幸福感として戻ってくるのではないか、と。悩み、立ち止まったこの半年は、のちに振り返った時に大きなターニングポイントになる。
一つひとつの試技を楽しそうこなす姿が印象的だった
日本時間の今夜(10月2日)から始まるドーハでの七種競技でその姿は見られない。東京五輪も現実的に厳しいのは理解している。今、頭で考えているのは〝記録会〟に今年のピークを持ってくることだけ。かつて女王だった過去の自分と比べたりはしない。
まだ静かでいい。次の節目を迎える時、再び多くの報道陣に囲まれる。たくさんの人に影響を与え、混成競技を知る人が増え、ライバルたちの目標となり、これまで以上に中高生にとって憧れの存在になる。
「記録とか大会ではなく、自分がどこまでいけるのか。限界に挑戦したい」
高校記録も、U20日本記録も、学生記録も塗り替えた。日本選手権を3連覇し、日の丸も背負った。だが、そのポテンシャルから言えば、彼女はまだ何も成し遂げてはいない。
文/向永拓史
ケガから復帰も日本選手権を欠場
ドーハ世界選手権開幕が迫る9月20日から22日に行われた全日本実業団対抗。会場にはどこかソワソワした雰囲気が漂っていた。 「このレースを終えたらドーハへ向かう」 「明日の夜の便が多いようだ」 何人かの選手はここを経てドーハへと旅立つ。それは多くのメディアも同じ。 全中を制し、インターハイを連覇し、高校記録も出した。インカレで何度も頂点に立ち、日本記録は3連覇、持ち記録は日本歴代2位。同世代でいち早く日本記録に近づいた存在かもしれない。 彼女にとって初めての全日本実業団もまた、これまで戦ってきた全国大会のように1つの節目となるもの。だが、おそらく過去に迎えてきた節目といえる試合の中で最も注目度は低かった。 走幅跳4位、100mハードル7位の選手。来年に東京五輪を控え、その大舞台へ歩を進めそうな選手への取材が優先されるのは至極当然のこと。 「久しぶりに試合に出られて、ちゃんとここに立てていられることがうれしい」 七種競技のヘンプヒル恵(アトレ)がトラックに帰ってきた。その1歩目は静かに、だが着実に前に進んでいるようだった。 悪夢は2年前にさかのぼる。 中大3年時の2017年は絶好調だった。前年迫られた山﨑有紀(九州共立大、現・スズキ浜松AC)の影を突き放すかのように、日本選手権では5907点をマークして3連覇。アジア選手権でも2位とあと少しで世界選手権の出場さえ見えるところまできた。 中田有紀(日本保育サービス)の持つ5962点の日本記録の更新、そして史上初の6000点突入は時間の問題かに思われた。 そこに落とし穴があった。 冬に急ピッチでスピードを磨いたことで記録が伸びた反動は大きく、土台が未完成のまま作った身体は悲鳴を上げる。目標としていたユニバーシアード(台北)出場に向けての調整中に膝を痛め、戦線離脱。途方に暮れた。 左膝前十字靭帯の断裂、内側半月板損傷と診断され、手術し、リハビリの日々が続く。何度も心が折れそうになりながらも、驚異的な回復力で翌シーズンの春に復帰。ジャカルタ・アジア大会の代表にもなった。 だが、ここでも急いで身体を仕上げた代償が、またもヘンプヒルを襲った。 今年4月のアジア選手権の途中で足首を痛めて途中棄権。5月の東日本実業団で「アトレ」のユニフォームを着て初の大会に臨んだが、痛めた左膝に違和感を覚えた。 中大での4年間は髙橋賢作監督(当時)に師事していたが、大学卒業を機に林田章紀コーチと契約した。そうした指導体制や環境の変化に加え、社会人生活と競技の両立、そして膝の痛みと練習をできないストレス、記録・結果を求められているという強迫観念……。 心も身体も限界だった。 6月の日本選手権混成の前日会見にその姿はなし。大学1年時に初出場初優勝を飾って以来、出場を続けてきた日本選手権を欠場した。 5月の東日本実業団がアトレ所属のデビュー戦。膝に違和感を覚え走幅跳は棄権し、その後は休養することになった立ち止まり、復帰を決意
「6月はほとんど何もしていませんでした。日本選手権の結果を見たり、日本記録がいろいろな種目で出たりしても、悔しいとも、やりたいとも思わなかった。その中に自分がいることも想像できませんでした」 中学時代は全中、高校生の時はインターハイ、そして大学ではインカレと、その時々で目の前の目標がすべてだった。仲間とともに毎日、精一杯過ごせばよかったし、そうすればおのずと結果が出た。 だが、ケガをして、立ち止まり、振り返った時、自分が誰のために、何のために競技をするのかがわからなくなった。 「このまま気持ちが戻らないなら、陸上をやっていても意味がないんじゃないか」 6月。日本選手権の棄権を決めた時に、こう言ってくれた人がいる。 「膝が痛いのなら仕方がない。でも、気持ちで負けているのなら俺は納得しないよ。人に左右されるのではなく、自分で決めなさい」 昨年12月の内定発表会見の際に同席し、応援してくれていたアトレ取締役会長(当時)の石司次男氏だった。JR東日本の取締役を歴任してきたほどの人物。心を見透かされていた。 「これまで自分で決めているつもりでも、そうではない部分もありました。でも、嫌なこと、苦手なことに対して、自分で選択しないといけない」 ストレートに諭してくれた石司氏は、1ヶ月後の7月15日に逝去。実は長く闘病生活を送り、会長の職も6月に譲って相談役になっていた。 石司氏は「彼女が世界で戦える選手として成長するとともに、競技とファッションを融合させ、混成競技をメジャーにしたい」と語っていた。 会見後、ヘンプヒルが取材を受けている間、再び姿を見せて記者一人ひとりにあいさつしていた。「日本陸上界の宝なのは十分理解しています。ビジネスとして利用するつもりはありませんし、人間として成長していけるよう全力でサポートしたい」。気配りの人だった。 誰のため、何のため。答えは自分で見つけるしかなかった。 昨年12月の内定会見。右が当時取締役会長だった石司氏 ヘンプヒルが目を背けていたことは2つある。 1つは周囲の人たちの距離感。練習環境が変わった中で、なかなか素直に自分の思いを言葉として伝えることができず、その結果、ストレスを溜め込んでしまった。 そんなヘンプヒルに対し、林田コーチは「競技者でなくても、誰でも社会人1年目は苦労するもの」と急かすことはなかった。 休養し、膝の痛みが癒えた頃、林田コーチに思いの丈をすべて伝える。脚の不安、どこを目指せばいいのかわからない葛藤、練習の取り組み方……。 「自分の思っていることを全部話したら、すごく前向きになれました」。考えていたよりずっとシンプルだった。コミュニケーションを取ることで、狂っていた歯車が一気に動いた。 もう1つは「休む」ということ。 「私にとっては休む=なまけている。そう考えていたんです」。練習を休まなくてはいけない自分が情けなく、置いていかれる気がする。ケガをしたことで、「休まなくては」と頭ではわかっていても、なかなか割り切れずにいた。 そこが強さであり、脆さでもあった。 「練習をしっかりと〝やり切れる〟自分と、休養したり少し落としたりする〝客観視できる〟自分の2軸でいないといけなかった。休むことも練習なんですよね」 家族とゆっくり過ごしたり、治療に専念したり。陸上から少し離れた日々。夏には中田有紀とじっくり話す機会もあった。第一人者同士でしか理解し得ないことも多かっただろう。 膝の痛みが消えて全力で走れるようになったのと時を同じくして、精神的にも1歩前進。トラックに戻ろうと自ら決意した。自分のために限界に挑戦する
全日本実業団の走幅跳では6mを超えた 練習に復帰して2ヵ月。8月の日体大競技会200mで試運転してから迎えた全日本実業団では、走幅跳で6m05(+1.0)、得意の100mハードルでは予選で13秒62(+1.9)をマークした。 「復帰戦にしてはまずまず。走れていたのでもう少し記録は出したかったです。まだ来年の日本選手権の参加標準記録を突破できていないので、10月の記録会で2試合、七種に出たいと思います。膝も痛くないので、少しずつ前進している感覚はあります」 優勝も、メダルもない全国選手権はいつ以来だろうか。それでも、「脚が痛くなかったのが一番」とその表情は充実感で溢れていた。そして、少しだけ目頭を熱くした。 一度は目標を見失ったヘンプヒルは、どこを目指していくのだろうか。 「今も大事ですが、自分がどうなりたいかすごく考えるようになりました。競技を長く続けるために大事な半年だったと思います。来年だけでなく、その先を見ています。まだ土台ができていないので、しっかり身体を作り上げて、その上で専門的な技術面を上積みしていきたい」 競技に対する考え方は180度変わった。 「これまでは誰かのためにこうしようとか、チームのためにやらなきゃいけないとか、いろいろ考えていました。でも、結局は自分のためですよね。自分が楽しんでこそ、応援してもらえるんじゃないかって」 チームや仲間、応援してくれる人たちのためにやることが成長につながっていたのは事実であり、決してそれは間違ったことではない。だが、1人の競技者として先に進むためには〝自分のため〟が必要だった。 〝誰かのため〟が〝自分のため〟から、〝自分のため〟が〝誰かのため〟に。 それが結果的に周囲に大きな影響を与え、また自分の成長と幸福感として戻ってくるのではないか、と。悩み、立ち止まったこの半年は、のちに振り返った時に大きなターニングポイントになる。 一つひとつの試技を楽しそうこなす姿が印象的だった 日本時間の今夜(10月2日)から始まるドーハでの七種競技でその姿は見られない。東京五輪も現実的に厳しいのは理解している。今、頭で考えているのは〝記録会〟に今年のピークを持ってくることだけ。かつて女王だった過去の自分と比べたりはしない。 まだ静かでいい。次の節目を迎える時、再び多くの報道陣に囲まれる。たくさんの人に影響を与え、混成競技を知る人が増え、ライバルたちの目標となり、これまで以上に中高生にとって憧れの存在になる。 「記録とか大会ではなく、自分がどこまでいけるのか。限界に挑戦したい」 高校記録も、U20日本記録も、学生記録も塗り替えた。日本選手権を3連覇し、日の丸も背負った。だが、そのポテンシャルから言えば、彼女はまだ何も成し遂げてはいない。 文/向永拓史
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