2021.03.29
山梨学大の上田誠仁監督の月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます! 今回は山梨学大の初代・留学生であるジョセフ・オツオリさんとの思い出についてです。
第7回「オツオリを偲び、時の軌跡を追う 1985~2021」
地球儀を指先で軽くはじくように回転させる。「世界は一つ、地球は丸い」などと独り言をつぶやいたところで実際の距離感が身近になるものではない。赤道直下と言えば灼熱の太陽、ケニアと言えばサバンナとライオン・キリンが脳裏に浮かぶくらいが子供時代のイメージだった。
ケニアの首都・ナイロビと東京を直線で結ぶと11,091km。毎日30km走り続ければ約1年かけたらたどり着ける距離、などと愚にもつかぬ計算をしてみたくなるほどの、存在の遠さを感じていた。実際の距離はロンドンもパリもそれほどの差はないのだが、生活の中での馴染み方からすれば遥かに遠く感じる。
そんな私が1985年に縁あって山梨学院大学の監督となり、2年後の11月にナイロビのクロスカントリー会場にたたずんでいるとは自分自身でも想像できていなかった。その頃のマラソン界といえば、現在日本陸連マラソン強化プロジェクトリーダーを務める瀬古利彦選手と宗兄弟(茂・猛)・中山竹通選手のライバル魂あふれる走りとともに、タンザニアのジェマ・イカンガー選手やエチオピアのデンシモ選手、メコネン選手など東アフリカ勢と覇を競い合っていた記憶が鮮明に残っている。
トラック種目であれば、中学2年の時に衛星中継で見たミュンヘン五輪3000mSCの金メダリスト、キプチョゲ・ケイノ選手の重力を感じさせない走りが圧巻であった記憶もある。
東アフリカ勢の強さは日本のマラソンファンにも浸透しつつあった。とりわけ、当時ヱスビー食品で瀬古選手・新宅永灯至選手・中村孝生選手らとともに練習を積み、メキメキ頭角を現してきたダグラス・ワキウリ選手(男子マラソンでローマ世界選手権金メダル、ソウル五輪銀メダル)の存在もあり、英語圏でもあるケニアが遠い存在ではすでになかったのかもしれない。
山梨学院大学に赴任してからは毎晩のように顧問の秋山勉(東農大で箱根駅伝4回出場)と長距離マラソン談議に尽きせぬ夜が続いた。必然的に興味の湧いてきたケニアとは如何にして強いのか? どんなトレーニングをどのような環境でやっているのだろうか? という疑問符は解明せずにはいられない性格なので、早速ケニア大使館に質問してみたり、山梨県に在住のナイロビ日本人学校に赴任経験のある教員を訪ねて行ったりと行動に移していった。
そんなこんなで日々を過ごして行く中で「ケニアに行ってみようじゃないか」という機運が徐々に高まっていった。その時点でわかったことは、ケニアには当然実業団もクラブチームもなく、国内で競技活動を続けるには、高校を卒業後アーミー(陸軍)かポリス(警察)に所属するしかない。または、アメリカの大学のクロスカントリーチームに所属するために留学する。もしくは、ワールドクラスになるとヨーロッパのクラブチームやスポーツメーカーとスポンサー契約をしてプロとしてやってゆくということであった。
にわかに、アメリカに留学しているのならば日本に留学も……という思いが同時に湧いてきても不思議ではなかった。そんな思いと同時に“言うは易し行うは難し”と数々の課題や疑問が脳裏によぎってきた。ランナーとしての可能性を期待してチームに合流したところで受け入れられるだろうか。日本の生活様式や文化になじめるだろうか。大学生としての本分である学業や学校生活のパターンを受け入れることができるのだろうか。チームメイトのみならず地域住民や大学教職員と良好な人間関係や友人関係を築いて行けるだろうか。日本の食生活は……など、疑問や不安は押し寄せる波の如く止まることがなかった。
1985~86年の話である。
今では東京出入国在留管理局甲府出張所が立派な合同庁舎のワンフロアーにあり、至って便利ではあるが、当時の「東京入管(東京出入国在留管理局)」は文字通り東京の大手町にしかなく受付の整理番号をもらうだけでも長蛇の列に並ばなければならないほどであった。
在留資格(ビザ)の習得や変更手続きに訪れている多くの外国人に混じって待ち続けていると、日本という国で生活をする資格を得るということの厳格さとその申請をしようとする人々の切実さの中に挟まれ身の引き締まる思いでもあった。
役所の壁は高いと思い込んでいるのは私だけではないかもしれない。前例のほとんどない申請をしようとしていること、留学生を受け入れた実績のほとんどない大学の関係者がビザの申請の方法の質問に来たこと、双方しばしの沈黙を経て会話が始まったことにハードルの高さが予感された。
日本国政府が発給する就学ビザは厳格である。結局初めての留学生を受け入れるための手順として、ケニアの高校またはその所在する地区との姉妹提携を行うこと。その事業を継続的に行うという約束のもと、交換留学生としての資格で山梨学院大学附属高校(現・山梨学院高)の英語科に編入するというかたちで彼らの受け入れが可能になった。
それがジョセフ・オツオリとケネディ・イセナである。
4年目の1992年には箱根駅伝の総合初優勝を達成。前列中央が上田監督、左へオツオリ、イセナ
当時はメールでのやりとりはなく携帯電話も普及していない時代なので、書類のやり取りはFAX・郵送・持参の3種類で、幾度となく東京入管詣が続いた。その苦労というか手間は、その後の留学生に対する指導の原点にもなっている。日本に来るならば大学として、そしてチームとして何を学んで帰国させるべきか、というものが決意のように心の中で固まった時期であったと振り返ることができる。
時を経て1992年(平成4年)第68回箱根駅伝初優勝のメンバーとなった彼らは卒業を迎えていた。新聞誌面には“助っ人ランナー・黒い弾丸”などという形容詞で表現される時代であったので多くの賛否に関する投書もいただいた。その中に次のような葉書があり今でも鮮明に記憶の襞に刻み込まれている。「箱根駅伝にクロン坊を走らせるな、害人は必要ない」というような内容であった。
卒業後はトヨタ自動車に入社して社会人ランナーとして活動の場を移す彼らに対して、このような非難の声があることも伝えなければならない。その葉書を見せて話をしたところ、オツオリはすかさず「先生、ほんなこん心配しちょ(先生心配することはないですよ)」と微笑みながら甲州弁で答えてくれた。聞けばケニアは長らく英国の統治下にあって、その影響から白人とのこのような差別的な表現は耳にすることは多々あったそうだ。モザイクのように入り組んだ部族間の抗争もあり、様々な意見が飛び交うことになど当然なんだと逆に諭してくれた。
留学生とともに歩んだ足跡と礎は、単なる歴史の1ページとしての瞬間的な化学反応としてではなく、チームを包む風土として脈々と生かしてゆかなければならない。さらには日本中長距離界の発展に少なからず貢献し続けてくれているとすれば、2006年8月30日、ケニアから日本に向かうため自宅から空港に向かう途中、不慮の事故で亡くなってしまったオツオリの意志も浮かばれると思う。
山梨学大のグラウンド入口にあるオツオリさんの鎮魂碑
このコラムを書くにあたって時間軸を過去に遡ると、あまりにも彼の人柄や競技にかける情熱、初めての留学生としてのずっこけた笑い話など、次から次へと思い起こされてキーボードの指先が止まることもしばしばであった。
40年弱の時を経て、各県には出入国管理支所ができ、インターネットで書類はそろい、大学には国際交流の専門部署ができ、申請手続きをスムーズに行える時代となった。ICLAなど国際学部とともに他国言語での講義を選択する時代が加速度的に整う時代となってきた。便利で十分な環境設定だけに、スポーツ留学生が学びの場を十分まっとうできずに帰国させられ、その後の人生設計が大きく狂ってしまう負の現象も多々起きていると耳に届く。現在、ケニアでは留学に関して、ケニアの文部科学省とケニア陸連の推薦承諾書なしには日本への留学申請ができないルールとなったと聞く。今後は走りに来たのか、学びに来たのかが問われてゆくのだろう。
コロナウイルスが少し落ち着いてくれば、東京の旧ブリジストン美術館(現・アーチゾン美術館)に赴き、ザオ・ウーキーの絵画の前でオツオリを偲びたい。何故ならオツオリが事故で亡くなったとの報告を受けた時、ふと気づくとこの絵の前に立ちたい自分がいたからである。あの絵はオツオリのことを思い出す時に最もふさわしいと感じたからだろう。
花の2区に4度出走して3度の区間賞。箱根駅伝史に強烈なインパクトを残したオツオリ(中央)
さらに時を経て、2021年97回箱根駅伝。
オツオリと同じキシイ出身のポール・オニエゴ(3年)が、4区でチームの劣勢をものともせず区間賞の激走を披露してくれた。彼が入国した時には10000mの記録が30分も切れない選手だっただけに感涙であった。
駅伝で学び、チームメイトと力を培い、学生として学びを大切にした21歳の青年の姿がそこにあった。
このコラムをオツオリに捧げる。
上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。 |
第7回「オツオリを偲び、時の軌跡を追う 1985~2021」
地球儀を指先で軽くはじくように回転させる。「世界は一つ、地球は丸い」などと独り言をつぶやいたところで実際の距離感が身近になるものではない。赤道直下と言えば灼熱の太陽、ケニアと言えばサバンナとライオン・キリンが脳裏に浮かぶくらいが子供時代のイメージだった。 ケニアの首都・ナイロビと東京を直線で結ぶと11,091km。毎日30km走り続ければ約1年かけたらたどり着ける距離、などと愚にもつかぬ計算をしてみたくなるほどの、存在の遠さを感じていた。実際の距離はロンドンもパリもそれほどの差はないのだが、生活の中での馴染み方からすれば遥かに遠く感じる。 そんな私が1985年に縁あって山梨学院大学の監督となり、2年後の11月にナイロビのクロスカントリー会場にたたずんでいるとは自分自身でも想像できていなかった。その頃のマラソン界といえば、現在日本陸連マラソン強化プロジェクトリーダーを務める瀬古利彦選手と宗兄弟(茂・猛)・中山竹通選手のライバル魂あふれる走りとともに、タンザニアのジェマ・イカンガー選手やエチオピアのデンシモ選手、メコネン選手など東アフリカ勢と覇を競い合っていた記憶が鮮明に残っている。 トラック種目であれば、中学2年の時に衛星中継で見たミュンヘン五輪3000mSCの金メダリスト、キプチョゲ・ケイノ選手の重力を感じさせない走りが圧巻であった記憶もある。 東アフリカ勢の強さは日本のマラソンファンにも浸透しつつあった。とりわけ、当時ヱスビー食品で瀬古選手・新宅永灯至選手・中村孝生選手らとともに練習を積み、メキメキ頭角を現してきたダグラス・ワキウリ選手(男子マラソンでローマ世界選手権金メダル、ソウル五輪銀メダル)の存在もあり、英語圏でもあるケニアが遠い存在ではすでになかったのかもしれない。 山梨学院大学に赴任してからは毎晩のように顧問の秋山勉(東農大で箱根駅伝4回出場)と長距離マラソン談議に尽きせぬ夜が続いた。必然的に興味の湧いてきたケニアとは如何にして強いのか? どんなトレーニングをどのような環境でやっているのだろうか? という疑問符は解明せずにはいられない性格なので、早速ケニア大使館に質問してみたり、山梨県に在住のナイロビ日本人学校に赴任経験のある教員を訪ねて行ったりと行動に移していった。 そんなこんなで日々を過ごして行く中で「ケニアに行ってみようじゃないか」という機運が徐々に高まっていった。その時点でわかったことは、ケニアには当然実業団もクラブチームもなく、国内で競技活動を続けるには、高校を卒業後アーミー(陸軍)かポリス(警察)に所属するしかない。または、アメリカの大学のクロスカントリーチームに所属するために留学する。もしくは、ワールドクラスになるとヨーロッパのクラブチームやスポーツメーカーとスポンサー契約をしてプロとしてやってゆくということであった。 にわかに、アメリカに留学しているのならば日本に留学も……という思いが同時に湧いてきても不思議ではなかった。そんな思いと同時に“言うは易し行うは難し”と数々の課題や疑問が脳裏によぎってきた。ランナーとしての可能性を期待してチームに合流したところで受け入れられるだろうか。日本の生活様式や文化になじめるだろうか。大学生としての本分である学業や学校生活のパターンを受け入れることができるのだろうか。チームメイトのみならず地域住民や大学教職員と良好な人間関係や友人関係を築いて行けるだろうか。日本の食生活は……など、疑問や不安は押し寄せる波の如く止まることがなかった。 1985~86年の話である。 今では東京出入国在留管理局甲府出張所が立派な合同庁舎のワンフロアーにあり、至って便利ではあるが、当時の「東京入管(東京出入国在留管理局)」は文字通り東京の大手町にしかなく受付の整理番号をもらうだけでも長蛇の列に並ばなければならないほどであった。 在留資格(ビザ)の習得や変更手続きに訪れている多くの外国人に混じって待ち続けていると、日本という国で生活をする資格を得るということの厳格さとその申請をしようとする人々の切実さの中に挟まれ身の引き締まる思いでもあった。 役所の壁は高いと思い込んでいるのは私だけではないかもしれない。前例のほとんどない申請をしようとしていること、留学生を受け入れた実績のほとんどない大学の関係者がビザの申請の方法の質問に来たこと、双方しばしの沈黙を経て会話が始まったことにハードルの高さが予感された。 日本国政府が発給する就学ビザは厳格である。結局初めての留学生を受け入れるための手順として、ケニアの高校またはその所在する地区との姉妹提携を行うこと。その事業を継続的に行うという約束のもと、交換留学生としての資格で山梨学院大学附属高校(現・山梨学院高)の英語科に編入するというかたちで彼らの受け入れが可能になった。 それがジョセフ・オツオリとケネディ・イセナである。 4年目の1992年には箱根駅伝の総合初優勝を達成。前列中央が上田監督、左へオツオリ、イセナ 当時はメールでのやりとりはなく携帯電話も普及していない時代なので、書類のやり取りはFAX・郵送・持参の3種類で、幾度となく東京入管詣が続いた。その苦労というか手間は、その後の留学生に対する指導の原点にもなっている。日本に来るならば大学として、そしてチームとして何を学んで帰国させるべきか、というものが決意のように心の中で固まった時期であったと振り返ることができる。 時を経て1992年(平成4年)第68回箱根駅伝初優勝のメンバーとなった彼らは卒業を迎えていた。新聞誌面には“助っ人ランナー・黒い弾丸”などという形容詞で表現される時代であったので多くの賛否に関する投書もいただいた。その中に次のような葉書があり今でも鮮明に記憶の襞に刻み込まれている。「箱根駅伝にクロン坊を走らせるな、害人は必要ない」というような内容であった。 卒業後はトヨタ自動車に入社して社会人ランナーとして活動の場を移す彼らに対して、このような非難の声があることも伝えなければならない。その葉書を見せて話をしたところ、オツオリはすかさず「先生、ほんなこん心配しちょ(先生心配することはないですよ)」と微笑みながら甲州弁で答えてくれた。聞けばケニアは長らく英国の統治下にあって、その影響から白人とのこのような差別的な表現は耳にすることは多々あったそうだ。モザイクのように入り組んだ部族間の抗争もあり、様々な意見が飛び交うことになど当然なんだと逆に諭してくれた。 留学生とともに歩んだ足跡と礎は、単なる歴史の1ページとしての瞬間的な化学反応としてではなく、チームを包む風土として脈々と生かしてゆかなければならない。さらには日本中長距離界の発展に少なからず貢献し続けてくれているとすれば、2006年8月30日、ケニアから日本に向かうため自宅から空港に向かう途中、不慮の事故で亡くなってしまったオツオリの意志も浮かばれると思う。 山梨学大のグラウンド入口にあるオツオリさんの鎮魂碑 このコラムを書くにあたって時間軸を過去に遡ると、あまりにも彼の人柄や競技にかける情熱、初めての留学生としてのずっこけた笑い話など、次から次へと思い起こされてキーボードの指先が止まることもしばしばであった。 40年弱の時を経て、各県には出入国管理支所ができ、インターネットで書類はそろい、大学には国際交流の専門部署ができ、申請手続きをスムーズに行える時代となった。ICLAなど国際学部とともに他国言語での講義を選択する時代が加速度的に整う時代となってきた。便利で十分な環境設定だけに、スポーツ留学生が学びの場を十分まっとうできずに帰国させられ、その後の人生設計が大きく狂ってしまう負の現象も多々起きていると耳に届く。現在、ケニアでは留学に関して、ケニアの文部科学省とケニア陸連の推薦承諾書なしには日本への留学申請ができないルールとなったと聞く。今後は走りに来たのか、学びに来たのかが問われてゆくのだろう。 コロナウイルスが少し落ち着いてくれば、東京の旧ブリジストン美術館(現・アーチゾン美術館)に赴き、ザオ・ウーキーの絵画の前でオツオリを偲びたい。何故ならオツオリが事故で亡くなったとの報告を受けた時、ふと気づくとこの絵の前に立ちたい自分がいたからである。あの絵はオツオリのことを思い出す時に最もふさわしいと感じたからだろう。 花の2区に4度出走して3度の区間賞。箱根駅伝史に強烈なインパクトを残したオツオリ(中央) さらに時を経て、2021年97回箱根駅伝。 オツオリと同じキシイ出身のポール・オニエゴ(3年)が、4区でチームの劣勢をものともせず区間賞の激走を披露してくれた。彼が入国した時には10000mの記録が30分も切れない選手だっただけに感涙であった。 駅伝で学び、チームメイトと力を培い、学生として学びを大切にした21歳の青年の姿がそこにあった。 このコラムをオツオリに捧げる。上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。 |
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