2025.09.07
日本の男子400mハードルを牽引してきた岸本鷹幸(富士通)が母校・法大で現役ラストレースを迎えた。
後輩の豊田将樹(富士通)や山本竜大(SEKI AC)がレーンに並ぶ。スタンドには日本代表経験者を筆頭に、OB・OG、現役がずらりと顔をそろえ、名ハードラーのラストレースを見届けた。7レーンに入った岸本。スタートからバネのある加速は全盛期を彷彿させる。さすがに中盤以降は遅れたが、最後まで美しいハードリングは変わらなかった。
「こんなにみなさんに気にかけてもらって幸せだなって」
1990年生まれの35歳。青森県出身で中学時代は110mハードルだったが、大湊高で恩師の勧めで400mハードルに挑戦する。その後、五輪、世界選手権と日本代表を経験する選手へと成長していく。
「長い付き合いですが、一番印象に残っているのは初めて見たときですね。高2だったと思うんですが、内側のレーンで軽く13歩で行っていたんです。衝撃的でしたね。すごくいい選手だなと思いました」
法大の苅部俊二監督はそう懐かしむ。岸本が「僕の人生に欠かせない。苅部さんに築いてもらった」という存在。師弟で歩んできたハードル人生でもあった。
高3でインターハイ、日本ジュニア選手権、国体の高校3冠を成し遂げて鳴り物入りで法大へ。同じ400mハードルで活躍し、五輪(96年、00年※4×400mR)出場経験がある苅部監督をはじめ、為末大ら、ヨンパーの伝統を作ってきたチームの一員になった。
大学3年時の2011年、静岡国際で同年日本リストトップとなる49秒27をマーク。日本選手権に初優勝し、テグ世界選手権では世界大会初舞台を踏んだ。
「身体はそんなに大きくないですが、ナチュラルに13歩で行ける。本当に素直で、私が言ったことを否定せず、厳しい練習を文句一つ言わなかった。卒業してからも面倒見も良くて、学生と同じメニューをやる。模範のような選手です」
苅部監督はそう言って目を細める。「ケガも多かった」。師弟が口をそろえたように、この11年から長いケガとの戦いも始まる。日本選手権で左脚を肉離れ。ユニバーシアードで銀メダルを手にし、テグ世界選手権でも準決勝に進んだが、決して万全とは言えなかった。
翌年の静岡国際では、当時・日本歴代10位、日本勢3年ぶりの48秒台となる48秒88をマーク。同年のロンドン五輪の参加標準記録を突破した。日本選手権ではさらに記録を更新し、日本歴代5位の48秒41をマーク。この記録は同大会の世界リスト5位と、ファイナルも期待されていた。
ところが、大会直前に左脚をまたも肉離れ。「テーピング、ぐるぐる巻きでしたね。48秒4を出して、これから47秒台を目指そう、という時にケガをさせてしまった」と苅部監督。「そんなこともありましたね。冷静に振り返ると、防げたケガばかりだった気がします」。頑張り過ぎてしまうからこそ、でもあった。
ロンドンでは1台目に接触。脚を引きずりながら最後まで駆け抜けたが、失格と判定された。世界選手権に通算5度出場を果たすが、オリンピックはこの1回だけ。自己記録はこの時から最後まで動かなかった。
それでも、岸本は走り続け、跳び続け、そして何度ケガに泣いても不死鳥のように舞い戻ってきた。
13年に富士通に入社。同年の日本選手権で3連覇。翌年は右脚を痛めながら4連覇を達成している。15年は坐骨痛に悩まされて、日本選手権がシーズン初戦。そこで2位となり、日本選手権後に参加標準記録を突破して北京世界選手権へ出場した。だが、以降は代表からも遠ざかった。ケガも重なり、49秒後半かかったシーズンもある。16年リオ五輪イヤーの日本選手権は途中棄権。17年の日本選手権はウォーミングアップ中の故障で欠場した。
もっとも苦しんだのは「19、20年頃」だと振り返る。アキレス腱が悲鳴を上げ、ついに50秒台でしか走れなくなった。だが、支えてくれたのは家族だった。
「妻はアスレティック・トレーナーでもあるのですが、足首、アキレス腱を懸命にケアしてくれました。このままじゃ終われない。もう少し頑張ろう、と思えました。家族がいなかったら辞めていました」
岸本は戻ってきた。
21年に49秒29まで戻すと、22年のオレゴン、23年のブダペストと世界選手権に連続で出場。特にブダペストには、黒川和樹(現・住友電工)、児玉悠作(現・ノジマ)と法大の後輩とそろって代表入り。「最後はご褒美ですね。とにかく楽しませてもらいました」。
引退を決意したのは24年の春。「静岡国際前まですごく良い感じで身体が作れていたのに、レースの数日前に体調を崩したんです。そこからはシーズンもボロボロ。もう一冬なんとか粘ったんですが、今年もダメでした。もう、戦うステージではないのかなって」。今思うと、「やっぱり身体がおかしかった」というが、「先は長くないと思ったので、後悔しないようにできるところまで追い込んだ」。その結果、ここが限界だった。「後悔はしていません」と胸を張った。
日本選手権や国体など、ここ一番で必ず強さを示してきた岸本。「後悔はない」が、心残りがあるとすれば「アスリートとして、ダイヤモンドリーグに出たかった」と。12年の絶好調時からのケガがなければ、今の日本人選手に先駆けて、世界と渡り合って転戦していただろう。
「運が良かったんです」と自らのハードル人生を語る。「恩師に言われてたまたま400mハードルを始めたのも、苅部さんに拾ってもらったのも。運が良かった」。後輩たちも育ち、「毎日の練習が日本選手権みたいだった」。その環境も「運が良かった」と。それを引き寄せたのは、岸本の人柄だったのだろう。
「最後はボロボロで、ほぼ走れない状況でしたが、こんなに長く頑張ってくれるとは……。今はお疲れさまという気持ちが一番大きいです」。どこまでも美しき師弟愛。最後の激走を見届けた苅部監督は「また週末にグラウンドに来て、後輩たちにアドバイスを送ってほしい」と期待した。
すでに社業に専念し、官庁を担当して営業に奔走する日々。「走るほうがきついかなと思っていましたが、どっちもきついですね。15年くらい遅れて社会勉強しています」と照れくさそうに笑った。「後輩たちには同じようにケガで失敗はしてほしくない。そのアドバイスはできると思います」と、自らの経験を伝えていく。
最後に出場したのは、実は100m。少し窮屈そうなユニフォーム姿になったのは金丸祐三さん(大阪成蹊大監督)、小林雄一さん、矢澤航ら、法大の仲間たちだった。慣れ親しんだトラックを駆け抜け、最後は胴上げされた。
長年、スパイクを愛用してきたミズノのスタッフも駆けつけ、ゴールドのスパイクが贈られた。「これで走れば良かった」と見つめる。
度重なるケガがあったが、美しいハードリングのごとく、苦難を跳び越えて前に進んできた。今は、仕事という目の前のハードルを一つずつ跳び越える日々だが、「また陸上界に戻った時にはお願いします」。日本陸上史に残るハードラーは、営業マンよろしく、お世話になった人たちに何度も何度も礼儀正しく頭を下げて感謝を伝えていた。
文/向永拓史
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