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【連載】上田誠仁コラム雲外蒼天/第10回「『Hakuna Matata!』留学生たちを35年間支え続けてきた松本公夫さん ~『おかげさま』の気持ちを込めて紹介したい人~」


山梨学大の上田誠仁監督の月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます!

第10回「『Hakuna Matata!』留学生たちを35年間支え続けてきた松本公夫さん ~『おかげさま』の気持ちを込めて紹介したい人~」

うどん県(香川県)出身の私にとって、讃岐うどんを語るだけでこのコラム3回分ぐらいになる。

麺のこしや出汁の具合だけでも熱く語れる。「かけ・釜揚げ・ぶっかけ・醤油かけ」などの食べ方や、天ぷらなど具材の豊富さと、キツネ(煮た油揚げ)など定番と呼ばれるシンプルさゆえに味付けの違いに個性の出るトッピング素材。「かやく(加薬)」と呼ばれる丼に並べられる蒲鉾やとろろ昆布・野菜なども季節感を反映し、調理法も工夫されていて多種多岐に渡る。

さらには薬味と呼ばれる卸生姜や刻み葱・七味などスパイスで好みの味に整えるのも楽しみの一つである。特に、スパイス好きの私のことを知る友人などは、地方の薬味を手土産代わりに持って来てくれるので、さらに味の変化が楽しめる。大分の柚子胡椒や新潟のかんずり(唐辛子みそ)、地方の薬味も色々なバリエーションがありなかなか奥が深い。

七味は赤唐辛子・山椒・ゴマ・青紫蘇・生姜・青のり・麻の実・芥子の実・陳皮の中から7種類を混ぜ合わせたもので、最近はガラムマサラやバードアイという激辛南蛮を入れたものまで出回っている。讃岐うどんがおやつ代わりに育った私にとって、七味は身近で欠くことのできないスパイスで、この一振りで味がギュッと締まるのである。

人生にも色々あれやこれやとスパイスがあるようで、これを「人生の七み」と言うそうだ。「恨み・辛み・妬み・嫉み・嫌味・ひがみ・やっかみ」で人の心に住みついていて何かの拍子に顔を出してくる感情だ。この感情が心の中を占拠するようでは息苦しい生き方となってしまう。

この息苦しさを払拭してくれるのは「おかげさま」と思える感謝の気持ちであろう。感謝の意を伝えなければならぬ人は胸に手を当て思い起こしてみると枚挙にいとまがない。今回は長らく留学生を影で支え続けていただいている松本公夫さん(75)を「おかげさま」の気持ちを込めて紹介したい。

オツオリ、モカンバ、モグス、ニャイロ…歴代の留学生たちを献身的にサポート

山梨学大の初代留学生だったオツオリ(中央)、イセナ(右)もサポートしていた松本さん

今から遡ること52年前、当時23歳だった松本さんは1969年から6年間、青年海外協力隊の一員としてケニアに赴任していたそうだ(1970年に日本万国博覧会が大阪で開催され、当時私は小学6年生だった)。

私が初めてケニアに行った時が1986年であり、この30年余りで目覚しいほどの道路整備が進んでいる。ナイロビは通勤時間ともなると夥しい車に溢れ、大渋滞に見舞われるほどに発展している。松本さんがケニアに赴任していた頃を思うと、今の交通基盤となる道路建設や自動車整備の指導など礎を築かれたことと思う。その間、スワヒリ語も堪能になり、帰国後は山梨の国際交流活動にも積極的に貢献していたそうだ。

そんな折、松本さんは山梨学院大学にケニアからの留学生が来ることを知った。何かお世話ができればとの思いで関わりを持つようになり、今日に至っている。「異国の地から見知らぬ人の中で生活することの寂しさを、少しでも紛らわすことができればとの思いで、気分転換のお手伝いをしてきただけです」と謙虚に語ってくれた。

誰もが見知らぬ土地で、同じ郷里の出身者や郷里をよく知る人と出会うと、地元談義に花を咲かすことができる。それは殊の外楽しい。私ならうどん談義に花が咲く。

松本さんはコロナ禍以前には、時折自宅に留学生を招いてケニアの主食であるウガリ(ホワイトコーンの粉で作るパンケーキのような物)を振る舞い、スワヒリ語でケニアの思い出話をして寂しさを紛らわしていただいたそうだ。休日には山梨の観光名所を巡ったり、ウンガ(ウガリの材料ホワイトコーンの粉で現在日本には輸入されていない)の調達を引き受けたりと献身的にサポートをしていただいてきた。

当然、オツオリも、モカンバも、モグスにニャイロ、現在のポール(オニエゴ、4年)やムルア(3年)に至る約35年間、淡々とその思いが変わることなく接していただいてきた。

今年4年生となったオニエゴ(中央)や3年生のムルワ(左)も松本さんのお世話になっている

その思いとは『Hakuna Matata』。スワヒリ語で「心配ないよ・どうにかなるさ・くよくよするな・気にしないで」などの意味で度々使われるフレーズが元となっていると言う。

Hakuna Matataのエピソードを語るには、松本さんが青年海外協力隊に応募した理由から始めなければならない。

松本さんは小さい頃に父親を戦争で亡くし、追うように母親も病で亡くなり、転々といろいろな人に育てられたと言う。そのようなことで、二十歳を過ぎる頃には人生を悲観し、相当ひねくれた性格だったそうだ(人生の七味の話をしたら、笑いながら「そのようでしたね」と答えてくれた)。

そんな青年時代に偶然、当時のアメリカ大統領J・F・ケネディが創設した若者の海外派遣ボランティア活動(Peace Corps/平和部隊)の記録映画を観て、「今の自分が行くべきところはこれだ」と感じてJICA(海外協力隊)に応募したそうだ。

半世紀も前にケニアに赴任し、協力隊員としての任務を遂行しようにも、様々な壁に阻まれうまくいかないことだらけだったと聞いた。そんな時に作業を手伝ってくれた現地の人から「Hakuna Matata」の言葉を掛けられ、慰められたり励まされたりしたという。何よりも貧しい生活の中でも彼らは「心まで貧しいわけではない」と言って作業に汗を流してくれた。そんな姿に感銘しケニアが大好きになったそうだ。

そんなこともあって任期を延長して6年間滞在。「支援のために訪れたケニアで逆に自分自身の人間性を取り戻し、豊かに人を想う気持ちを授かった。だからこそ、その恩返しとしてささやかだけれども彼らの心の拠り所として何かしらのお世話をさせていただいているのです」と柔和な笑顔で答えてくださった。この笑顔を35年間変わらず留学生に向けて語りかけていただいたとしたら、彼らにとってどれほど励みとなったことだろうと気付かされた。

「おかげさま」のたった5文字に込める思いは、心からの感謝だろう。それは日の当たらない影の部分でいて目立たず、しかしながら献身的に思いやりや愛情を持ってチームや選手を支えていただいている方。または、日常のルーティンに埋没するくらい当たり前の献身と受け止めてしまうくらい身近な存在。そのような方はどのチームや選手にも必ず存在すると確信している。

先日まで開催されていた日本選手権のインタビューを聞いていて、「おかげさま」の影に光が当たるようなコメントを多くの選手が口にしている。さすがに日本を代表するトップアスリートだと独りごちた。

我を振り返り目に留まらない、気づかないでやり過ごしてきたことはないだろうか、と原稿を仕上げながら自問自答している。いささか心苦しい。

上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。


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