2025.06.21
再整備のため移転が決まっている三ツ沢公園陸上競技場で神奈川県選手権が行われた。1951年にオープンしたスタジアムは、神奈川県民にとって特別な場所。中学生から一般選手まで、芝生席には人がいっぱい。招集所が大混雑するのも、この競技場の見慣れた光景だ。
女子やり投のピットに1人の選手が戻ってきた。山内愛、30歳。時折、強く吹く三ツ沢らしい風を感じるように目をつむり、懐かしむように競技場全体を視線を送る。かつて自分がいた場所にやっと帰って来られた。大好きな陸上競技の、やり投のピットに――。
神奈川を代表する投てき選手だった。秦野渋沢中では全中の砲丸投に優勝。小田原城北工高に進むと、鈴木充先生のもとでやり投を始め、10月の国体では今も高1最高として残る50m81を投げた。
10年の沖縄インターハイで当時の高校記録を打ち立てた佐藤友佳(東大阪大敬愛高)に続いた世代は、史上稀に見るハイレベルな高校女子やり投になる。山内の同学年の瀧川寛子(東大阪大敬愛高)、久世生宝(倉敷中央高)ら、1学年下の斉藤真理菜(土浦湖北高)。のちに五輪金メダリストとなる北口榛花(JAL)もまた、彼女たちの背中を追いかけていた1人だ。
高3の新潟インターハイでは、やり投は斉藤に敗れて2位。右腕を痛めていたが、テーピングを6回目の前に外し、手拍子を求めてこの日自身最高の投げを見せた。砲丸投3位、円盤投4位と3種目入賞を果たし、たった1人で女子フィールド優勝を果たし、手に抱えきれない盾や賞状を手に、笑顔が弾けた。
全中のタイトル以降、“1番”からは遠かったが、新潟インターハイの一つのハイライトでもあった。「みんなが応援したくなる選手になりたい」。種目ごとに髪型を変えていた姿が印象的だった。
大阪成蹊大に進学してからも、ユニバーシアードやアジア選手権代表に選ばれ、3年時には58m76まで記録を伸ばした。だが、やっぱり“1番”が遠い。日本インカレのタイトルに届かず。卒業後も長谷川体育施設で競技を続け、日本選手権では14年と19年に3位。頂点には立てなかった。
高校時代もケガに苦しんだが、21年頃から腰や左膝、右腕の肩・肘と痛みが増していった。一緒に戦っていたはずの選手、後輩たちが次々と自分を追い越していき、届かぬ存在になった。
試合に出られない、結果が出ない自分にとって「陸上がどんどん嫌いになりました。あんなに大好きだったのに、自分を傷つけるものになっていったんです」。入ってくる情報をシャットダウンしようにも「自然と目にしてしまう」。
22年3月末で長谷川体育施設を退社。「しばらくはアルバイトをしながら日本選手権を目指したのですが、やっぱりアルバイトの掛け持ちで競技をしていくのは難しかった。試合どころじゃなかったです」。
その年の日本選手権の真っ最中、「ハウスクリーニングでゴミ掃除をしていたんです。もう、あそこには戻れないんだって」。陸上の文字を見るだけでも「胸が締め付けられた」。気がついた時には「心が折れていました」。陸上から完全に離れ、スパイクやユニフォームもまとめて奥にしまい、自宅に引きこもった。
今年の1月に神奈川に帰省した時に恩師と再会し、「陸上に戻ったらどうだ」と声をかけられた。もう戻ることはできない。そう答えると、「じゃあ、ちゃんと終わらせたほうがいい」と諭された。
「それもそうだなって。自分にとって陸上に戻るのは一番怖いことでした。大好きだったからこそ、憎さ百倍みたいな。でも、ここを清算しないと次に進めない。おばちゃんになった時に陸上を嫌いだったって思いたくない。良い思い出にしたかったんです」
覚悟を決めて3月1日にトレーニングを再開。それからは「本当に毎日が楽しくて、ずっと心が軽かったんです」。積極的にトレーニングをSNSで発信。その強肩は健在だった。
神奈川県選手権にはオープン参加。サイドスタンドには中学、高校の恩師、家族、大学や実業団の仲間が駆けつけた。アナウンスでその功績と引退試合であることが紹介される。きっと全盛期を知らない高校生たちも、その姿を焼き付けようとした。
1回目はファウル。手拍子を求めた2回目もファウル。右に抜けるクセは残ったままだ。「楽しみすぎてふわふわしていましたね」。オープン参加のため試技は3回。スタンドから「サン(3)ファー、期待しているぞ」と“煽り”が飛ぶ。
最後も手拍子。13年前、新潟で見た姿が重なる。慎重に、ピットの左側から助走をスタート。身体は全盛期の半分くらいの細さだろうか。だが、しなやかに、力強く放たれたやりが三ツ沢の強風を裂いて飛んでいく。
「さすがに記録なしはどこにも発表できないので、残しにいきました。あれが1本目に出ていたらもうちょっと……。欲が出ますね。50m、できれば自己ベストだって狙いたかったです。でも、本当に楽しめたので100点です」
記録は45m46。自己記録には13mほど及ばない。「ありがとうございました!」と感謝した。テントにいる神奈川県の後輩たちに声をかけ、思いを託す。顔馴染みの先生方の元へ行き深々と頭を下げた。
やり投の表彰式の後で、引退セレモニーが執り行われた。「お前、誰だよと思われるかもれませんが…」とマイクの前に立ち、「陸上は良い意味でも悪い意味でも私のすべてでした」。役員を務める先生たちは、みんな“愛ちゃん”を知っている。晴天の三ツ沢は笑顔と拍手であふれた。
「懐かしいですね。あの時の新潟の写真、今でも飾っているんですよ」。花束を渡した鈴木先生とは、引退試合になってもなお、ああでもない、こうでもないと技術の話をしていた。
秋に、ずっと拠点にしてきた大阪でも試合をして、一つの終止符を打つ。「楽しかったし、やって良かったなって思います。ありがとうの気持ちを込めて投げました。……辞めたくないなって思っちゃいますね」。
山内の記録は県選手権の優勝記録よりも良いもの。この日、山内は久しぶりに“1番”になった。13年前に賞状でいっぱいだった両手は、たくさんの花束でふさがった。オリンピックや世界選手権には届かなかったが、あの日語った「みんなが応援したくなる選手になりたい」という目標は叶えた。
「陸上が嫌いになってしまった自分が嫌いだった」。その自分はもういない。また投げたくなれば、このピットに戻ってくればいい。大好きな陸上に捧げた日々は、「悔いがないと言えば嘘になるけど、あえて言います。悔いはありません」。愛してくれた人たちに見守られた地元でのラストスローは、次の人生への大きな架け橋となる。
文/向永拓史
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