2026.02.28
「芸術の国」で目の当たりにした感動
フィギュアスケートの場合、転倒してもすぐさま立ち上がり予定されている演技プログラムをこなさなければならない。そのため、精神的な復帰抑制(心理的なストレスで次のことができず呆然としてしまうこと)から動きを止めてしまうことはできない。後悔や絶望などと言ってなどいられないほど、刹那の時間で自分を取り戻し、そして立ち上がり、演技をしなければならない。
素晴らしい演技に送られる賞賛の拍手は、選手の笑顔とともに会場を沸かせる。それ以上に私の心を捉えたのは、ミスを犯し転倒しても、演技の完成度が不十分であってもその直後に送られる「大丈夫だよ! 諦めないで次の演技に向かって頑張れ!」と心のこもった拍手が絶妙のタイミングで会場を包み込むところにある。
日本代表で今回金メダルを獲得した「りくりゅうペア(三浦璃来・木原龍一)」も、ショートプログラム(SP)で手痛いミスを犯した。その直後に観衆の拍手が2人を後押しした。SPの演技が終了し、木原選手が失意の表情でリンクを後にする時も、その拍手が背中を押していた。
世界中から人が集まる五輪や世界選手権。言語や文化の違いはあれど、拍手によるノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)は言葉以上に心象を共有できたと思えた。そして、選手達にも十分伝わっていると実感できた。
会場の観客たちとともに、国や順位争いを超えて、「大丈夫、次はきっとうまくいくよ!」と心を込めて拍手を送っていると、スポーツが果たす役割の深さを再認識させられた。
圧巻はりくりゅうペアのフリーの演技であった。選手紹介のアナウンスの後にも昨日のショートのミスから気持ちを切り替えて、“頑張れ”の拍手が2人を包んでいた。それに応えるような強い視線は、これから始まる演技がこの日のために集積されたものであることを予感させる気力に満ちていた。
4分間のフリーの演技は高潔であり、ミケランジェロの彫刻を見た時のように完璧。それを目の当たりにした記憶が永遠であるかのような感動を生んだ。フィニッシュのポーズを決めた直後、アリーナの観衆が申し合わせたかのように一斉に立ち上がった。スタンディングオベーションが万雷の拍手とともに会場を包んだ。気がつくと、私も感動の涙を流しつつの拍手であった。
振り返ると、どの観客も感動で潤んだ目をしていた。まだ得点発表がされていない中で、誰もが素晴らしいと感じ、総立ちになるほど芸術的とも言える演技を「芸術の国」イタリアで目の当たりにした。その後の得点発表で世界最高得点がアナウンスされたことが証明している。
拍手の起源は、紀元前5世紀頃の古代ギリシャ演劇において、観客が芝居を称賛するために手をたたいたことが最初とされている。明治時代以前の日本では、能や歌舞伎など観劇で拍手する習慣は一般的ではなかったそうだ。明治になり、西洋人が音楽会や観劇の後に「マナー」として拍手していることに倣い、拍手の習慣が広まったものと推測されている。

箱根駅伝も多くのファンが沿道に集まる
紀元前5世紀から受け継いできた、拍手の文化圏で共有できた感動をそのまま持ち帰った。そして、これから始まるトラックシーズンやロード駅伝で全身全霊をかけて頑張る選手達に向け、心を込めて拍手を送りたい。
| 上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任。 |
山梨学大の上田誠仁顧問の月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます!第66回「声援を送ることへの新たな視界~ミラノ・コルティナ滞在記~」
箱根駅伝の沿道を埋め尽くす観客。その目の前数メートル先を、一瞬ではあるが選手が通過してゆく。選手の表情から心象風景を思い、息遣いから疲労度などを慮りつつ、心からの声援と拍手を送る。応援する人は、当然のごとくその声や拍手の音が選手に届くことを信じて疑わない。応援する側と選手との間に生まれる心地良い連帯感。それは声援と拍手が選手に届いてこそ生まれる。まさに疲れた足取りに、まだ取り出せていない力を呼び覚ましてくれるものだ。このような環境設定をすることは、「する・見る・支える」で成り立つスポーツ文化の醸成には必須であると幾度か書かせていただいた。ただ、箱根駅伝沿道の風物詩的情景とも言える主催新聞社の応援小旗の配布を、自主的に限定していただいていることをご存知の方は少ないと思う。コース上で隙間なく配布していた小旗は、数年前から各中継点の前後100mを除く、前後1kmでのみの配布となっている。これも走る選手に応援の声や拍手の音が届くように、と各地域の販売店の方々のご配慮のお陰であると感謝している。そもそも走った選手たちのインタビューで「沿道の方々の声援が小旗を振るバタバタという音でかき消され、運営管理車からの声も聞き取れないほどでした」との声を受けてのことであった。複数の選手に確認したところ、特に復路の後半区間では異口同音にそのような見解が多数を占めていた。応援する気持ちを届けたい、と願うのは応援に駆けつけた方々の共通の願いであろう。駅伝やマラソンのような広域移動型のスポーツもあれば、サッカーやバスケットボールといったスタジアムやアリーナのような屋内外の競技施設の場合もある。静かに見守りタイミングを見計らって拍手や声をかける競技もあれば、野球やサッカーのようにブラスバンドや一斉応援が許される競技スポーツもある(関東インカレなど各大学の個性的な応援も見どころなので機会があればぜひご来場賜りたい)当然のごとく応援にはマナーがある。陸上競技ではスタート前の静寂が必要だ。昨年9月の東京世界選手権では、スターターの号砲までの静寂の後からは、割れんばかりの声援がスタンドを揺るがしたものであった。そして、応援の時間と場所、種目を移してみよう。私がミラノ・コルティナ冬季オリンピックのフィギュアスケートの会場で、声援を送ることに対する新たな視界が開ける感動を覚えたことをお伝えしたいからだ。なぜ、この場所にと思われるかもしれない。私の姪のエリー・カムが全米代表として出場(ペアと団体)し、団体では金メダルを獲得。私はその6日後のペアの応援に駆けつけた。(参考記事)冬季五輪の競技特性として、雪上や氷上で競技が行われることが常で、転倒がつきものである。“転ばぬ先の杖”が準備されているわけではなく、トレーニングに費やした時間の集積だけが技量となって試される刹那のスポーツでもあろう。エリーは大会終了後に「母(磨子・秋山氏の次女)からは、『初めに転んで立ち上がることから練習を始めるのがスケート。失敗しても何度でも立ち上がらなければ次に進めない。その気持ちを大切にしなさい』と言われてきました」と明かす。続けて、「立ち上がることをあきらめていたらこの舞台には立てなかったと思う」と語ってくれた。そのようにして技に磨きをかえてきたフィギュアスケートだ。[caption id="attachment_131862" align="alignnone" width="800"]
ミラノで平和の門と記念撮影[/caption]フィギュアスケートは優雅で華麗に見えなければならないが、フリー演技の4分間の運動量は1500mに匹敵すると言われるほど過酷である。ペアで動きを合わせながら、高速でのジャンプやスピン、リフトやステップなど様々な要素を曲に合わせて表現しながらこなしてゆかなければならない。心拍数が上がって苦しくなってくる後半でも、表情はそれを微塵も感じさせないほど曲と動きにシンクロしていることには驚いてしまう。五輪選手であれば、難易度の高い技をサラリとやってのけそうである。しかしながら勝負を懸けたこの舞台は、その上をゆく超難易度の演技構成で挑んでくる緊張感がスケートリンクを支配する。演技を見守る観衆は声援を送ることはできない。その代わりに、心のこもった拍手が選手に届けられる。特に転倒などのミスを犯した直後に送る拍手は、明らかに“頑張れ”の響きがこもっていた。「芸術の国」で目の当たりにした感動
フィギュアスケートの場合、転倒してもすぐさま立ち上がり予定されている演技プログラムをこなさなければならない。そのため、精神的な復帰抑制(心理的なストレスで次のことができず呆然としてしまうこと)から動きを止めてしまうことはできない。後悔や絶望などと言ってなどいられないほど、刹那の時間で自分を取り戻し、そして立ち上がり、演技をしなければならない。素晴らしい演技に送られる賞賛の拍手は、選手の笑顔とともに会場を沸かせる。それ以上に私の心を捉えたのは、ミスを犯し転倒しても、演技の完成度が不十分であってもその直後に送られる「大丈夫だよ! 諦めないで次の演技に向かって頑張れ!」と心のこもった拍手が絶妙のタイミングで会場を包み込むところにある。日本代表で今回金メダルを獲得した「りくりゅうペア(三浦璃来・木原龍一)」も、ショートプログラム(SP)で手痛いミスを犯した。その直後に観衆の拍手が2人を後押しした。SPの演技が終了し、木原選手が失意の表情でリンクを後にする時も、その拍手が背中を押していた。世界中から人が集まる五輪や世界選手権。言語や文化の違いはあれど、拍手によるノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)は言葉以上に心象を共有できたと思えた。そして、選手達にも十分伝わっていると実感できた。会場の観客たちとともに、国や順位争いを超えて、「大丈夫、次はきっとうまくいくよ!」と心を込めて拍手を送っていると、スポーツが果たす役割の深さを再認識させられた。圧巻はりくりゅうペアのフリーの演技であった。選手紹介のアナウンスの後にも昨日のショートのミスから気持ちを切り替えて、“頑張れ”の拍手が2人を包んでいた。それに応えるような強い視線は、これから始まる演技がこの日のために集積されたものであることを予感させる気力に満ちていた。4分間のフリーの演技は高潔であり、ミケランジェロの彫刻を見た時のように完璧。それを目の当たりにした記憶が永遠であるかのような感動を生んだ。フィニッシュのポーズを決めた直後、アリーナの観衆が申し合わせたかのように一斉に立ち上がった。スタンディングオベーションが万雷の拍手とともに会場を包んだ。気がつくと、私も感動の涙を流しつつの拍手であった。振り返ると、どの観客も感動で潤んだ目をしていた。まだ得点発表がされていない中で、誰もが素晴らしいと感じ、総立ちになるほど芸術的とも言える演技を「芸術の国」イタリアで目の当たりにした。その後の得点発表で世界最高得点がアナウンスされたことが証明している。拍手の起源は、紀元前5世紀頃の古代ギリシャ演劇において、観客が芝居を称賛するために手をたたいたことが最初とされている。明治時代以前の日本では、能や歌舞伎など観劇で拍手する習慣は一般的ではなかったそうだ。明治になり、西洋人が音楽会や観劇の後に「マナー」として拍手していることに倣い、拍手の習慣が広まったものと推測されている。[caption id="attachment_131862" align="alignnone" width="800"]
箱根駅伝も多くのファンが沿道に集まる[/caption]紀元前5世紀から受け継いできた、拍手の文化圏で共有できた感動をそのまま持ち帰った。そして、これから始まるトラックシーズンやロード駅伝で全身全霊をかけて頑張る選手達に向け、心を込めて拍手を送りたい。| 上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任。 |
RECOMMENDED おすすめの記事
Ranking
人気記事ランキング
2026.10.14
2026.10.14
2026.10.13
2026.10.08
走高跳・髙橋渚がデサントとアドバイザリー契約「ともにさらなる高みを目指し、挑戦を続ける」
2026.10.12
2026.10.08
走高跳・髙橋渚がデサントとアドバイザリー契約「ともにさらなる高みを目指し、挑戦を続ける」
2026.10.05
2026.09.18
Latest articles 最新の記事
2026.10.14
九州実業団駅伝エントリー 三菱重工はアジア大会マラソン金の山下一貴 旭化成は井川龍人や長嶋幸宝ら登録
九州実業団駅伝のチームエントリーをチェック! 三菱重工 定方俊樹―井上大仁―山下一貴―吉岡遼人―松倉唯斗―守屋和希―杉彩文海―小林大晟―村上大樹―山本涼介―伊東夢翔―キプラガット・エマヌエル クラフティア 山野力―大塚祥 […]
2026.10.14
関東は10枠で変わらず 東北は初の複数枠獲得、北海道は3大会連続2枠維持! 第39回出雲駅伝出場枠発表
第39回出雲駅伝の出場枠をチェック! ●第39回出雲駅伝各地区学連出場枠 北海道 2(基本枠1、成績枠1) 東 北 2(基本枠1、成績枠1) 関 東 10(基本枠1、成績枠9) 北信越 1(基本枠1、成績枠0) 東 海 […]
2026.10.14
全日本大学女子駅伝エントリー 城西大・本間香ら前回Vメンバー4人 大東大はワンジル&野田 名城大は木村や真柴1年4人
全日本大学女子駅伝のエントリーをチェック! 城西大 石川苺(4年) 澤井風月(4年) 沖田梨花(3年) 茂野葉湖(3年) 本澤美桜(2年) 大西由菜(2年) 窪田舞(2年) 世古凪沙(2年) 野口麻衣子(2年) 本間香( […]
2026.10.14
DM三井製糖、新スポーツブランド「Zq」を発表! 男子マラソン・鈴木健吾も絶賛
DM三井製糖株式会社は10月14日、持久系スポーツに取り組むアスリートの正しい糖質・エネルギー補給をサポートする、これまでにない新しいスポーツブランド「Zq(ジキュー)」を10月20日に立ち上げることを発表した。 ブラン […]
2026.10.14
資生堂 2027年3月末限りで休部を発表「発足当時とさまざまな環境が変化するなか、熟考を重ねた結果」
資生堂 休部についてのコメント全文 日頃より資生堂ランニングクラブを応援いただきありがとうございます。 当クラブは、2027年3月末日をもちまして、実業団としての活動を休止し、休部することになりました。 資生堂は今、激し […]
Latest Issue
最新号

2026年11月号 (10月14日発売)
アジア大会総特集
駅伝プレビュー
