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2025.12.16

今年度限りでの「引退」を表明した村澤明伸インタビュー【前編】 大学3・4年時はトラックと駅伝の両立に挑戦したが「バランスを取るのが難しかった」
今年度限りでの「引退」を表明した村澤明伸インタビュー【前編】 大学3・4年時はトラックと駅伝の両立に挑戦したが「バランスを取るのが難しかった」

今年度限りでの引退を表明した村澤明伸(SGホールディングス)

全国高校駅伝で日本一に輝き、箱根駅伝は花の2区で快走。日本選手権10000mでも上位に食い込んだのが、村澤明伸(SGホールディングス、34歳)だ。紆余曲折を経て、今年度限りでの「引退」を表明したが、どんな競技生活を過ごしてきたのか? まずは高校・大学時代を振り返っていただいた。〔全2回の前編〕

飛躍のきっかけは高1の都道府県対抗駅伝の1区8位

──村澤選手は高校、大学、実業団で活躍されてきましたが、陸上競技を始めたきっかけは何だったんですか?

陸上を始めたのは中学時代です。2人の兄が陸上(長距離)をやっていたので、その影響がかなり大きかったと思います。兄たちが通った高校は地元だったので僕とは違うのですが、特に4学年上の兄は3000m障害でインターハイに出場していて、その姿がカッコよく見えたんです。静岡大時代は全日本大学駅伝にも出場しています(注/もう1人の兄も信州大で全日本大学駅伝に出場しており、村澤と一緒に同じ大会を走ったことがある)。

──村澤選手が進学した佐久長聖高校(長野)では寮生活でしたし、陸上部の競技レベルも高く、大変だったと思います。

高校時代はかなり昔の話になってしまうので、きつかったという記憶はあまりないですね。ただ、最初はチームの主力に合わせた練習に苦労しました。“それが必要なもの”という受け入れ方に変えられた瞬間があって、そこからは余裕度が出てきたんです。学年が上がるごとに練習メニューが自分に合ってきて、さらに余裕度が出てきたのかなと思います。新しい経験、新しい刺激ばかりで、あっという間の3年間でした。常に「次はこうしたい!」という思いがあったんです。

──全国高校駅伝は1年時から出場しました。どんな思い出がありますか?

1年時(2006年)は5区(3km)で区間3位(チーム成績は6位)。私としては初めての全国大会だったので、緊張のあまり気づいたら終わっていたという感じでした。ただ、1月の都道府県対抗駅伝で長野県チームの1区(7km)に選んでいただき、思った以上に勝負ができたんです(トップと8秒差の8位)。学校に戻った後も、あのときの景色を忘れることできず、「あそこでもっと走りたい」と思えたことが大きかったですね。

「もっと強くなりたい」と思うきっかけは、長野・佐久長聖高1年の1月に出場した都道府県対抗駅伝で快走したこと。長野県チームの1区を任された村澤(No.17)は、年上の強豪選手を相手にトップから8秒差の8位で2区につないだ

2年での〝同タイム負け〟をステップに、3年の全国高校駅伝で初優勝

──全国高校駅伝は2年時(2007年)が1区(10km)で4位。チームは、優勝した仙台育英(宮城)に同タイムで惜しくも敗れました。

2年時は「優勝」を目標に掲げていたものの、あまりリアルな目標ではなかったように思います。ゴールして初めて「勝てるかもしれない位置にいたんだ」と私自身が気づいたんです。出走7人中2人が3年生、5人が2年生という状況だったので、翌年は「絶対勝つぞ!」という思いより、「早く答え合わせをしたい」という気持ちが強かったと思います。

──3年時(2008年)は3区(8.1075km)を日本人最高記録(当時)の23分38秒で走破して、チームは日本高校記録(当時)となる2時間2分18秒で初優勝を飾りました。2位の仙台育英を1分52秒も突き放す圧倒的な勝利でしたが、どんな思いがこみ上げてきましたか?

うれしかったのはすごく覚えています。ただ、優勝して良かったというよりも、答え合わせの「答え」が合っていて良かったという思いでした。この年から1区に留学生が出走できなくなりました。私はラストのキックが効く方ではないので、両角速先生(現・東海大駅伝監督)のなかで1区に起用しても(他校の有力選手に)うまく使われて終わるな、という判断だったと思います。

高3の全国高校駅伝(2008年)では3区を担い、この区間の日本人最高記録を14秒上回る快走をした村澤(左)。先頭を争っていた仙台育英の留学生・クイラ(右端)のリードを32秒にとどめてチームの初優勝に貢献した

2008年の全国高校駅伝。佐久長聖は前年の同タイム2位という悔しさを晴らし、2時間2分18秒の日本高校最高記録で悲願の初Vを達成した

全国高校駅伝で日本一に輝き、箱根駅伝は花の2区で快走。日本選手権10000mでも上位に食い込んだのが、村澤明伸(SGホールディングス、34歳)だ。紆余曲折を経て、今年度限りでの「引退」を表明したが、どんな競技生活を過ごしてきたのか? まずは高校・大学時代を振り返っていただいた。〔全2回の前編〕

飛躍のきっかけは高1の都道府県対抗駅伝の1区8位

──村澤選手は高校、大学、実業団で活躍されてきましたが、陸上競技を始めたきっかけは何だったんですか? 陸上を始めたのは中学時代です。2人の兄が陸上(長距離)をやっていたので、その影響がかなり大きかったと思います。兄たちが通った高校は地元だったので僕とは違うのですが、特に4学年上の兄は3000m障害でインターハイに出場していて、その姿がカッコよく見えたんです。静岡大時代は全日本大学駅伝にも出場しています(注/もう1人の兄も信州大で全日本大学駅伝に出場しており、村澤と一緒に同じ大会を走ったことがある)。 ──村澤選手が進学した佐久長聖高校(長野)では寮生活でしたし、陸上部の競技レベルも高く、大変だったと思います。 高校時代はかなり昔の話になってしまうので、きつかったという記憶はあまりないですね。ただ、最初はチームの主力に合わせた練習に苦労しました。“それが必要なもの”という受け入れ方に変えられた瞬間があって、そこからは余裕度が出てきたんです。学年が上がるごとに練習メニューが自分に合ってきて、さらに余裕度が出てきたのかなと思います。新しい経験、新しい刺激ばかりで、あっという間の3年間でした。常に「次はこうしたい!」という思いがあったんです。 ──全国高校駅伝は1年時から出場しました。どんな思い出がありますか? 1年時(2006年)は5区(3km)で区間3位(チーム成績は6位)。私としては初めての全国大会だったので、緊張のあまり気づいたら終わっていたという感じでした。ただ、1月の都道府県対抗駅伝で長野県チームの1区(7km)に選んでいただき、思った以上に勝負ができたんです(トップと8秒差の8位)。学校に戻った後も、あのときの景色を忘れることできず、「あそこでもっと走りたい」と思えたことが大きかったですね。 [caption id="attachment_190776" align="alignnone" width="800"] 「もっと強くなりたい」と思うきっかけは、長野・佐久長聖高1年の1月に出場した都道府県対抗駅伝で快走したこと。長野県チームの1区を任された村澤(No.17)は、年上の強豪選手を相手にトップから8秒差の8位で2区につないだ[/caption]

2年での〝同タイム負け〟をステップに、3年の全国高校駅伝で初優勝

──全国高校駅伝は2年時(2007年)が1区(10km)で4位。チームは、優勝した仙台育英(宮城)に同タイムで惜しくも敗れました。 2年時は「優勝」を目標に掲げていたものの、あまりリアルな目標ではなかったように思います。ゴールして初めて「勝てるかもしれない位置にいたんだ」と私自身が気づいたんです。出走7人中2人が3年生、5人が2年生という状況だったので、翌年は「絶対勝つぞ!」という思いより、「早く答え合わせをしたい」という気持ちが強かったと思います。 ──3年時(2008年)は3区(8.1075km)を日本人最高記録(当時)の23分38秒で走破して、チームは日本高校記録(当時)となる2時間2分18秒で初優勝を飾りました。2位の仙台育英を1分52秒も突き放す圧倒的な勝利でしたが、どんな思いがこみ上げてきましたか? うれしかったのはすごく覚えています。ただ、優勝して良かったというよりも、答え合わせの「答え」が合っていて良かったという思いでした。この年から1区に留学生が出走できなくなりました。私はラストのキックが効く方ではないので、両角速先生(現・東海大駅伝監督)のなかで1区に起用しても(他校の有力選手に)うまく使われて終わるな、という判断だったと思います。 [caption id="attachment_190853" align="alignnone" width="800"] 高3の全国高校駅伝(2008年)では3区を担い、この区間の日本人最高記録を14秒上回る快走をした村澤(左)。先頭を争っていた仙台育英の留学生・クイラ(右端)のリードを32秒にとどめてチームの初優勝に貢献した[/caption] [caption id="attachment_190854" align="alignnone" width="800"] 2008年の全国高校駅伝。佐久長聖は前年の同タイム2位という悔しさを晴らし、2時間2分18秒の日本高校最高記録で悲願の初Vを達成した[/caption]

箱根駅伝デビュー戦は2区で〝10人抜き〟、翌年は驚異の〝17人抜き〟

──東海大に進学して、箱根駅伝は1年生から花の2区で大活躍。区間2位(日本人トップ)で〝10人抜き〟を見せました。 1年時は予選会(日本人トップ)に出場していますが、ハーフマラソンに近い距離の単独走は箱根駅伝が初めてでした。自分のなかでも抑えて走っていくなかで、後半伸びていったイメージだったと思います。そのときに「1年あれば、もっと速いペースで入っても大丈夫だな」という感覚はありました。 ──2年時は7月の世界ジュニア選手権の5000mで8位、9月の日本インカレの10000mはレース途中に右足首を捻挫しながら2位(日本人トップ)に入りました。その年度の箱根駅伝の2区では当時・区間歴代4位となる1時間6分52秒で区間賞。20位から3位まで順位を押し上げ、日本人選手では大会史上最多となる〝17人抜き〟を披露しました。 2年時は「練習の強度を上げなくてもいいかな」というイメージで過ごすことができて、それが箱根駅伝にうまくつながったかなと思います。ただ、日本インカレの捻挫から故障が多くなり、3年時以降はトラックと駅伝のバランスを取るのが難しくなったんです。 [caption id="attachment_192815" align="alignnone" width="745"] 東海大に進学した村澤は1年生から大活躍(写真)。箱根駅伝ではいきなり2区を務め、14位から4位に浮上する〝10人抜き〟を披露して3区を務めた同期の早川翼にリレー。翌年は最下位の20位から3位に上がる伝説の〝17人抜き〟を達成。村澤は歴代4位の好タイムで外国人留学生も押さえて2区の区間賞を獲得し、この大会の最優秀選手となった[/caption]

大学3年の日本選手権10000m2位、世界を意識

──3年時は日本選手権の10000mで2位に入り、アジア選手権では銅メダルを獲得しました。しかし、箱根駅伝は3年連続となる2区で区間3位(1時間8分14秒)と前年ほどのインパクトを残すことができませんでした。 この年は両角先生が東海大駅伝監督に就任して、世界を強く意識するようになり、トラックの結果を重視し始めたんです。アジア選手権が7月にあり、その流れで夏合宿に入って、体調を崩しました。3年時は10000mがメイン種目になったんですけど、5000mをメインにしていた1・2年時と同じぐらいのレース数をこなしていたような記憶があるんです。そのダメージがあったのかもしれません。そんな状態なのに、箱根駅伝は前年の走りを求めようとしたギャップが出たと思います。ただ、翌年度は本当に世界が狙えるなという感触もあったんです。 [caption id="attachment_190794" align="alignnone" width="800"] 村澤は大学3年の日本選手権(埼玉・熊谷)の10000mで2位を占めたことで、「世界」を本格的に見据えた。後方は優勝した佐藤悠基。高校、大学、実業団を通じて先輩にあたる4学年上の偉大なランナーだ[/caption]

学生ラストイヤーはロンドン五輪の出場を逃す

──4年時(2012年)は4月のカージナル招待(米国・スタンフォード)10000mで27分50秒59をマークしました。しかし、その後は調子が上がってこなかった印象です。 今振り返ってみて、カージナル招待は自分のなかで喜ばしい記録ながら、ロンドン五輪の参加標準記録A(27分45秒00)に約5秒届かなかったんです。ロンドン五輪(8月上旬)に出場するには日本選手権(6月上旬)を勝たないといけません。その焦りがあって、喜びたいのに喜べない。それは結構きつかったですね。 [caption id="attachment_190796" align="alignnone" width="800"] 大学4年(2012年)では4月下旬のカージナルス招待10000m(米国・スタンフォード)で27分50秒59の自己ベストをマークしたが、同年のロンドン五輪の参加A標準記録に約5秒届かぬ悔しい思いをした[/caption]

最後の箱根駅伝は予選会を欠場、チームの連続出場もストップ

──日本選手権は10位(28分32秒78)と振るわず、ロンドン五輪の代表を逃がしました。そして、10月の箱根駅伝予選会は欠場するかたちになり、チームは落選。連続出場が40年でストップし、複雑な心境だったと思います。 両角先生に「出たい」と言うこともできたはずなんですけど、すべてを託してしまった。失望感、悔しさというよりは、自分で何も決めないまま予選会を迎えて、チームとして最悪な結果になり、何も考えらえなかったというのが正直なところです。箱根駅伝は良かったところもあれば、「もう少し自分を制御できるところもあったのでは」と今になって思うこともありますし、チーム状況まで気を配れる余裕がなかったように感じます。 [caption id="attachment_190797" align="alignnone" width="800"] 大学4年時の箱根駅伝予選会はアキレス腱の故障で欠場。東海大は本戦の連続出場が「40」で途切れてしまい、駅伝主将の村澤は応援してくれた関係者に沈痛な表情であいさつをした[/caption] ──最後の箱根駅伝はチームメイトの早川翼選手の給水を担当しました。 本戦のときもまだ自分では(チームとして箱根駅伝に出られないという)現実を飲み込めない状況でしたが、早川の手助けみたいなものができて良かったと思います。ただ、1月3日に走路員をやった後輩たちが(無念そうな表情で)寮に帰ってくるのを見て、現実を受け入れざるを得ない雰囲気を感じました。 ──大学3、4年時はトラックと箱根駅伝の両立が難しかったんでしょうか? 今振り返ると、そう思います。でも、当時の自分はそういう考えに至らなかったので、仕方ないのかなと思います。ただ、世界選手権やオリンピックに出場することを考えたら、大学4年間でちょっとずつ近づいていったイメージはありました。 <後編に続く>

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