2025.04.20
まさに“電撃”だった。今から2年前の2023年4月30日に萩谷楓のエディオン陸上競技部退部と引退が発表。その2年前に東京五輪に出場して5000mを15分04秒95の当時・自己新、前年にはオレゴン世界選手権にも出場していた。
長野東高時代からトラック・駅伝問わずに活躍。同世代の田中希実や廣中璃梨佳らとともに将来を担っていた一線級であり、伸び盛りの当時・22歳がなぜ――。
一度は走ることから遠ざかった萩谷が、昨年、再び走り出した。「マラソンで世界へ」。幼い頃からがむしゃらに走り続け、立ち止まって気づいた走ることの意味と楽しさ。引退した経緯や、トレイルランの挑戦、そして競技復帰に至る心の葛藤まで、ロングインタビューで赤裸々に語った。
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萩谷が再び走り出した。そんな情報が入ったのは2024年だった。トラックでも、駅伝でも、マラソンでもなく、『トレイルラン』。主に山の中などさまざまな地形を走って競う競技だ。
「昨年まで関西で1人暮らしをしていました。以前からサポートしてくださっている方のお陰で、兵庫の三宮でジムトレーナーをしながら、ランニング教室もしながら練習していたんです。家の近くは山や川があって長野みたい。練習するには最適でした。今年に入って関東を拠点に活動しています」
久しぶりに聞いた、母親譲りの関西弁交じりの話しぶりが懐かしかった。率直に聞いた。なぜ、若きオリンピアンは突然、引退したのか。
「オレゴン世界選手権が終わってから、ブダペスト世界選手権やパリ五輪を考えた時に『無理かもしれない』と思ったんです。それだけの思いを持って練習ができていなかったんです。もちろん、簡単に決めたわけではありません。勇気が必要でした。もう一切、走るのを辞めようと決めました」
23年1月。奄美大島で合宿を積み、「割と走れる感じはあったんです」。ただ、エントリーしていた全国都道府県対抗女子駅伝の3日前に異変を感じた。「背中が痛いなと思ってレントゲンを撮ったら左の肺がつぶれている状態でした」。肺気胸だった。
ただ、病だけが引退の理由ではない。むしろ、肺気胸は最後の“ダメ押し”だっただけに過ぎない。それまでの数年間は、「もうずっと苦しかったんです」と振り返る。
「今、冷静に思うと東京オリンピックに出て、自己ベストも出せたのは、自分で褒めてあげたら良かったなって思います。でも、どうしても周囲を比べてしまう自分がいたんです。一緒に代表になった選手は決勝に残っているのに、なんで自分は予選落ちなんだろうって。自己ベストを出しても差が全然縮まらない」

東京五輪5000mに出場した萩谷楓
「これだけのレベルの選手が同世代にいたのは、本当にありがたかったし、だから成長してこられました。でも、いっつも2番手、3番手みたいなところがあって。自分がどれだけ順調で、完璧なレースをしても、前にはどちらか2人が必ずいました。今思えば、自分がどうだったかが一番大事なのに、当時はそう思えなかった。苦しかったですね」
2000年生まれ。長野県出身で、母も元長距離ランナーだったこともあり、幼い頃から「マラソンを走りたい」と思うのは自然なことだった。小学校から中学までバスケットボールに夢中だったが、高校からは陸上部に入ると決めていた。強豪・長野東高では玉城良二監督(現・日体大監督)のもとで成長。ケガに泣かされながらも、同級生の小林成美(現・三井住友海上)とダブルエースとして活躍し、3年時にはインターハイ1500m5位、全国高校駅伝でも準優勝を果たしている。
将来を嘱望されたランナーの1人。小林が名城大に進んだ一方、萩谷は実業団を選んでエディオンへ。世界への近道だと感じたからだった。19年の日本選手権1500mで3位。翌年には5000mで当時日本歴代7位の15分05秒78を出し、21年に五輪代表にまで上りつめた。その後は14分台にも突入。1500mでも自己新を出すなど、誰が見ても順風満帆だったが、萩谷はずっとモヤモヤを抱えていたという。
「故障は高校時代から多かったので乗り越え方は知っていたのですが、どれだけ練習を継続できても結果がついてこない、ということの乗り越え方を知らなかったんです。元々、すごく負けず嫌い。高校時代から自分が“一番”になった記憶がないんです。それが原動力でもあったんですが、野性的に動いていたのが良いのか悪いのか…。その思考に限界が来たんですね」
東京五輪、そして翌年のオレゴン世界選手権に向けては「ポイント練習も含めて、しっかりできていたんです」。にもかかわらず、思うような結果が出ず「スタートラインに立って、走れないのがなんでっていう感じだったんです」。結果がすべてではないのは理性でわかっても、許せない自分がいた。それは、“オリンピアン”という肩書きの影響もあった。
調整や走りの確認で出た競技会や記録会でも「オリンピアン」と言われ、「日本代表としての走りをしないといけない。そんなたいそうな選手じゃないのに」。そんな葛藤が常にあった。

萩谷は22年オレゴン世界陸上にも出場したが…
ただ、肺気胸になってすぐは「辞める選択肢は一切なかった」。治療に専念し、走ることはもちろん、重いモノを持つこともできず、塞ぎ込むしかなかった。
「定期的に診察に行って、治ったかなと思って走り出したらまた発症して、というのを2回くらい繰り返しました。部屋に閉じこもることが多くなって、周囲から見たら様子がおかしくなったと思います。食事がうまくとれなくなった時期もありました。でも、自分ではおかしいことに気づいてなかったんです」
幼い頃から誰かに相談することが苦手だった。それは母に対してもそうで、「一番走れている私を見てほしかった」。連絡が少ない時は不調なのだと母は気づいていただろう。チームメイトやライバル、同級生たちにも相談できないタイプ。「1人は寂しいくせに頼るのが好きじゃなくて」と今なら笑って言える。「だから、こうなりました」。心が壊れた。
「最後は監督に『辞めようか』と判断してもらった感じなんです。自分では選択できなかったからありがたかったです。やっぱり現状維持が一番楽だし、何より自分は走ることがすべてだった。それから離れることは怖かったです。何となく自分でもこのままじゃダメだというのはわかっていましたが、言われたらそうだよな…って」
3月に“ストップ”がかかり、4月に入って寮を出て実家に帰った。


実家に戻り、アルバイトをしながら教習所通いの日々
「元々、私は“ゼロか100か”みたいな性格なので、やるなら世界大会を目指す。やれないのなら、一切競技から離れると考えました。その時は、休んでもう一回走るというのは考えていなかったです。ずっと前を見て走ることしかしてこなくて、それ以外をやろうとも思わなかった。幼い頃の夢とかもなかったです。急に辞めることになって迷惑をかけたのに、『また走るかもしれません』とは言えなかった」 退社して長野の実家に帰った。恩師の玉城先生に報告すると「そうか」とすぐに察してくれて咎められることはなかった。母は走らなくなったことに何も言わなかった。「楓が決めたことなら違う道でも応援する。走っていても走っていなくても、楓は楓だから」。この言葉にスッと心が軽くなったのを感じた。 「長野では車の免許がないと“生きていけない”と思ったんで、まずは教習所に通いました。でも、運転のセンスがなくて…(笑)。私、こう見えて何でもわりかしできる人生だったんです。マラソン大会でも1位で、勉強もそれほど苦手じゃなかった。まさか、こんなにも“できないこと”にぶち当たるなんて。私、どんなにきついポイント練習もできますが、教習所はしばらくサボって、免許を取るまで時間がかかりました。走るほうが楽だし、30キロくらいなら走ったほうが速いですから(笑)」 駅前のホテルの食堂で、朝5時から11時までアルバイトを週6回。ここでもストイックな性格がのぞく。「昼間を有効に使いたかったので、どうせやるなら一気に入れちゃえって。実業団の朝練習より早起きで頑張りました。でも、それでも1日10,000円にもならない。働くって大変だなと思いました」。長い時間をかけた免許も無事に取れて、「ふらふらしていました」。次に何をしようか考える日々だった。 競技を離れてから走ることはなかった。正確には「走っちゃいけない」と感じていた日々だった。 「しばらく走らなかったですね。走っちゃいけないと思ってたんで。ああいう理由で実業団を辞めた以上は。正直、辞めた時もまだまだ走っていたかったです。あんな状態でもそう思っている自分がいるのも気づいていました。でも、できる状況ではないし、あのまま走り続けたらもっと壊れていました。自分を守るために、走るのを辞めないといけない。走りたい思いがあっても蓋をしたんです」 23年の秋に誘われたのが再び走り始めたきっかけだった。 「高校の時に使っていた練習のコースを、当時から走っていたおっちゃんがいるんです。その時はおっちゃんがトレイルランをしているとは知らなくて、というより、そもそも、トレイルランを知らなかった。『おっちゃん、よう走ってんなぁ』くらいに見ていたのですが、話を聞くと『トレイルラン』をしていると。トレイルって何? っていうところがでした。『今後、どこかの山に一緒に走りに行こうよ』と誘ってもらったんです」 [caption id="attachment_167149" align="alignnone" width="800"]
「マラソンで世界へ」再び走り始めることを決意
24年2月のレースでは優勝。「陸上ではなかなか“一番”が取れなかったんですが、初めてゴールテープを切ったのは本当にうれしくて、帰ってきたなって感じました」。そうしているうちに、さまざまなトレイルランナーやウルトラマラソンに挑戦する人と交流していくうちに、「私は100キロも楽しめない。せいぜい40キロくらい。山道も下りがへたなんです。それよりロードを走っているほうが楽しい」と改めて感じた。 3月に出た神戸のレースは国際大会で、久しぶりに海外選手と競り合うと、心に火がともった。「トレイルを始めたばかりの私なんて一切、歯が立たなかったのですが、なんだかいいなって思いました」。あの場所に戻りたい。マラソンで戻りたい。徐々に山練習からロード練習の頻度が増えた。 復帰する上で、「どれくらいの力がわからなかったので状態を確認しよう」とトラックの5000mのトライアルをした。「18分かかったら復帰を辞めようと思った」が、結果は17分。「いくら山だけだと言っても17分もかかったんですよ」とショックを受けた。そこから1ヵ月は「自分でメニューを立てたことがなかったのですが、いろいろ考えるのも楽しかったです」。玉城先生にも時折メニューの相談をして、再び5000mのタイムトライアルをしたら、16分40秒まで上げられた。「やっていることは間違いじゃない」 これまで一人暮らしをしたことがなかったこともあり、現役復帰を目指して心機一転、兵庫に移ったのが昨年6月。「競技をするなら、食事も自分で作れるようにならないと」。母は「多分、心配はしていたと思いますが、走っている私のことが好きなのでうれしさ半分、心配半分、かな」。やりたいようにやればいい、と背中を押してくれた。 再び走り始めた自分に、「走ってくれてありがとう」と声をかけられることが増えた。「走るだけで感謝されて、人の心を動かせるなんて、何て素晴らしいことなんだろう」。やっぱり、走ることは人生から外せない。 12月には2年ぶりとなるトラックレースに出場し、5000mを15分54秒35。生涯かけて16分を切れないランナーが山ほどいる中で、やはり萩谷は特別な才能を持って生まれている。 [caption id="attachment_167148" align="alignnone" width="607"]

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