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2022.05.31

【連載】上田誠仁コラム雲外蒼天/第21回「関東インカレを語りつくす~101回の伝統を振り返りながら~」


山梨学大の上田誠仁顧問の月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます!

第21回「関東インカレを語りつくす~101回の伝統を振り返りながら~」

104歳にして身体健康、矍鑠(かくしゃく)とした佇まいは今後とも齢を重ね、さらなる人生の歴史を積み重ねられることとなろう……と新聞の記事にでもなれば、どのような人物かとその後の記事が読みたくもなろう。

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超高齢化社会に突入している現代社会においては、このようにご壮健にてお暮らしの方もおられることと思う。もし身近にそのような方がおられれば、今すぐ馳せ参じてゆっくりと昔話に耳を傾けたいものである。

1919年(大正8年)から2022年(令和4年)の今日まで、昭和と平成を挟んだ激動の近代史を語るには、ベテランの講談師が三日三晩語ろうとも語り尽くせるものではないはずだ。

このお方のお名前は「関東学生陸上競技連盟」。

1919年4月関東学生陸上競技連盟が創設された。このための話し合いは前年の1918年、年の瀬も迫る12月に東京高等師範学校(現・筑波大)の教室に関係者が集い、協議されたと聞く。メンバーの中にはオリンピアンの野口源三郎氏や金栗四三氏の名前を見ることができる。

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1918年と言えば、大正デモクラシーの真只中にありながら、米騒動が全国各地に勃発するなど政情的にも経済的にも決して恵まれた時代ではなかった。なおかつスペイン風邪(スペインインフルエンザ)が世界的に猛威を奮っており、日本もその影響で同年は27万人以上、翌年は12万人以上の死者を出している。

それでも、当時の学生たちのパイオニア精神と行動力が連盟創設へとつながったことを私たちが理解し、次の世代へと引き継いでいかねばならない。

創設後も関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)、第二次世界大戦(1939年~1945年)など幾多の試練と苦難を乗り越えてきた。

そして令和となり、コロナ禍に翻弄されながらこの2年間を耐え、今年で関東学生陸上競技対校選手権(通称:関東インカレ、関カレ)は101回目の歴史を刻み、伝統を積み重ねた。

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歴史とはたゆまない時の流れの中にあって、その時々で刻まれた事実であり、伝統とは同じ目的のために集いし者たちが、その意義やスピリッツを継承してゆくことだと思う。

何故このように感慨深く語り始めたのかは理由がいくつかある。

一つ目は、関東インカレ100回記念誌が完成し、手元に届いたことにある。私が順天堂大学時代にインカレに出場したのは58回大会(10000m4位)、59回大会(5000m2位、10000m3位)の2回。

指導者としては山梨学院大学で陸上競技部を創部した翌年の65回大会(1986年)の2部で1500m優勝5位、5000m2位、20km4位、3000m障害6位、10000m競歩5位となったのがインカレで戦う初戦であった。

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その当時を思い浮かべることは記憶のひだをなぞれば済むことだが、冒頭で記したように、関東学連創設からの歴史のページをめくるたびに偉大なる諸先輩方の足跡に触れ、あたかもその時代を知らぬ私でさえ、その時代を共に生きてきた錯覚すら覚えるほど引き込まれてしまった。

この記念誌の編集委員を務めた皆様のご苦労や、貴重な資料を提供していただいた方に心から感謝しつつ、先人たちの熱き志の延長線上に私たちが今、国立競技場で競技できていることに新たな感動を覚えたからだ。

二つ目は、過去2年コロナ禍にあって変則開催を余儀なくされてきたことだ。感染症対策優先であるが故に、苦楽をともにしたチームメイトの入場や応援がかなわなかった。

インカレで味わう一体感は学生たちにとって貴重な思い出となり、陸上部員である誇りと伝統を実体験できる貴重な大会であると信じて疑わない。今年の大会は有観客(声出しの声援は禁止)で開催できた。関東学連登録大学152校、登録者数約8000名の入場が可能となった。

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また、ハーフマラソンでは四谷警察署の協力を得て道路使用許可を認めていただいた。しかも公認コースとして検定を終えコース設定ができたことにも感謝している。

なんとしてもハーフマラソンも新国立競技場を発着とするコースで競技をできないものかと検討を重ねていただけに、短期間で可能となったのも献身的に働きかけていただいた学生幹事と関係者の連携の賜物であった。

それらを含めてライブ配信はあるものの、チームメイトの戦いを現場で臨場感を持って観戦できたことは本当に良かったと思う。国立競技場というメガキャパシティーの観客席を有するスタジアムであるからこそ、実現できた対応であったと思う。

選手にとっては、記録に残る熱き戦いであり、それを後押しするチームメイトの声援は、それぞれの記憶となって刻み込まれる。色褪せないこの記憶はOB・OGとなって時を経ても臨場感を持って蘇る。

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例えば日曜日のスタンドには懐かしいOBの姿を見つけることができた。創部1年目に入部し、チーム作りの要となってくれた山田光君(1989年卒)はインカレや箱根駅伝出場の経験はない。それでもインカレを戦う後輩の姿が見たくて駆けつけたとのことだった。昔話に花を咲かせながら懐かしいOBたちと観戦していると、学生時代との時空を超えた不思議な感覚となると語ってくれた。

国立競技場のスタンドにて順大時代からの恩師である澤木啓祐氏(右)と

このことを踏まえても、関東学連の学生幹事が主体となって学生審判・学生補助員が運営し、学生のための対校選手権は、応援に駆けつけた部員たちとともに「する・みる・支える」の三位一体となった学生スポーツのあるべき姿を伝統として継承しているといえる。

ご来場いただいた多くの陸上ファンや関係者の方々を含めて、未来に向けて歴史と伝統の継承者となっていただいたと確信したからだ。

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三つ目は、オリンピック開催のメイン競技場である国立競技場で開催された意義を深く感じたからだ。1964年の東京オリンピックで使用した旧国立競技場は、関カレの開催競技場として定着していた。私にとっても憧れの聖地であった。

2020TOKYOオリンピック開催が決定されてから、装いを新たに建て替えられる国立競技場建設期間は、横浜国際総合競技場や相模原ギオンスタジアムなど神奈川県の施設を利用させていただいた。特にコロナ禍にあって開催協力をいただいた相模原ギオンスタジアムには心から感謝している。

横浜国際総合競技場で開催された2015年は本学のエノック・オムワンバ(現・三菱重工アシスタントコーチ兼選手)が1500mで日本学生新記録(3分35秒69)を樹立した

今回オリンピックの翌年に、この国立競技場で選手たちの熱気あふれる戦いぶりを間近に見るにつけ、100回記念誌の過去の大会を彩った各ページの戦いと思いが交錯する。

どの大学のどの先輩方も、この年に、この国立競技場ですべての部員たちとともに学生たちで4日間の開催を無事やり切ったことに拍手を送ってくれているのではないかと感じたからだ(審判の東京陸上競技協会並びに医務室対応のドクター及び警備など関係者の方への敬意も含めて)。

さらには24回大会(1942年)が開催された後の25回大会は、太平洋戦争の影響で1946年となり、その間1943年には大学生らを兵士として動員した学徒出陣式典がこの国立競技場の場所から行われている。この時大学生であった方で、ご存命の方がおられるとすれば97歳から100歳となられているはずだ。すでにお亡くなりになられた方々に対して101回を共に戦った学生たちと共に心からのご冥福を捧げたい。

歴史は振り返る時間を作らなければ、ただ過ぎ去った過去で終わる、伝統はたとえ小さな種火であってもそれを絶やさぬ見識と知恵を出し合う支え無くしては継承し得ない。

変革を繰り返しながらも、101回大会を終えた種火は学生たちの胸の中で燃え続け、102回大会へと受け継がれてゆくことだろう。

来年もオリンピックの聖地、国立競技場で熱き戦いの炎が燃え上がることを楽しみにしたい。

上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任。
山梨学大の上田誠仁顧問の月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます!

第21回「関東インカレを語りつくす~101回の伝統を振り返りながら~」

104歳にして身体健康、矍鑠(かくしゃく)とした佇まいは今後とも齢を重ね、さらなる人生の歴史を積み重ねられることとなろう……と新聞の記事にでもなれば、どのような人物かとその後の記事が読みたくもなろう。 超高齢化社会に突入している現代社会においては、このようにご壮健にてお暮らしの方もおられることと思う。もし身近にそのような方がおられれば、今すぐ馳せ参じてゆっくりと昔話に耳を傾けたいものである。 1919年(大正8年)から2022年(令和4年)の今日まで、昭和と平成を挟んだ激動の近代史を語るには、ベテランの講談師が三日三晩語ろうとも語り尽くせるものではないはずだ。 このお方のお名前は「関東学生陸上競技連盟」。 1919年4月関東学生陸上競技連盟が創設された。このための話し合いは前年の1918年、年の瀬も迫る12月に東京高等師範学校(現・筑波大)の教室に関係者が集い、協議されたと聞く。メンバーの中にはオリンピアンの野口源三郎氏や金栗四三氏の名前を見ることができる。 1918年と言えば、大正デモクラシーの真只中にありながら、米騒動が全国各地に勃発するなど政情的にも経済的にも決して恵まれた時代ではなかった。なおかつスペイン風邪(スペインインフルエンザ)が世界的に猛威を奮っており、日本もその影響で同年は27万人以上、翌年は12万人以上の死者を出している。 それでも、当時の学生たちのパイオニア精神と行動力が連盟創設へとつながったことを私たちが理解し、次の世代へと引き継いでいかねばならない。 創設後も関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)、第二次世界大戦(1939年~1945年)など幾多の試練と苦難を乗り越えてきた。 そして令和となり、コロナ禍に翻弄されながらこの2年間を耐え、今年で関東学生陸上競技対校選手権(通称:関東インカレ、関カレ)は101回目の歴史を刻み、伝統を積み重ねた。 歴史とはたゆまない時の流れの中にあって、その時々で刻まれた事実であり、伝統とは同じ目的のために集いし者たちが、その意義やスピリッツを継承してゆくことだと思う。 何故このように感慨深く語り始めたのかは理由がいくつかある。 一つ目は、関東インカレ100回記念誌が完成し、手元に届いたことにある。私が順天堂大学時代にインカレに出場したのは58回大会(10000m4位)、59回大会(5000m2位、10000m3位)の2回。 指導者としては山梨学院大学で陸上競技部を創部した翌年の65回大会(1986年)の2部で1500m優勝5位、5000m2位、20km4位、3000m障害6位、10000m競歩5位となったのがインカレで戦う初戦であった。 その当時を思い浮かべることは記憶のひだをなぞれば済むことだが、冒頭で記したように、関東学連創設からの歴史のページをめくるたびに偉大なる諸先輩方の足跡に触れ、あたかもその時代を知らぬ私でさえ、その時代を共に生きてきた錯覚すら覚えるほど引き込まれてしまった。 この記念誌の編集委員を務めた皆様のご苦労や、貴重な資料を提供していただいた方に心から感謝しつつ、先人たちの熱き志の延長線上に私たちが今、国立競技場で競技できていることに新たな感動を覚えたからだ。 二つ目は、過去2年コロナ禍にあって変則開催を余儀なくされてきたことだ。感染症対策優先であるが故に、苦楽をともにしたチームメイトの入場や応援がかなわなかった。 インカレで味わう一体感は学生たちにとって貴重な思い出となり、陸上部員である誇りと伝統を実体験できる貴重な大会であると信じて疑わない。今年の大会は有観客(声出しの声援は禁止)で開催できた。関東学連登録大学152校、登録者数約8000名の入場が可能となった。 また、ハーフマラソンでは四谷警察署の協力を得て道路使用許可を認めていただいた。しかも公認コースとして検定を終えコース設定ができたことにも感謝している。 なんとしてもハーフマラソンも新国立競技場を発着とするコースで競技をできないものかと検討を重ねていただけに、短期間で可能となったのも献身的に働きかけていただいた学生幹事と関係者の連携の賜物であった。 それらを含めてライブ配信はあるものの、チームメイトの戦いを現場で臨場感を持って観戦できたことは本当に良かったと思う。国立競技場というメガキャパシティーの観客席を有するスタジアムであるからこそ、実現できた対応であったと思う。 選手にとっては、記録に残る熱き戦いであり、それを後押しするチームメイトの声援は、それぞれの記憶となって刻み込まれる。色褪せないこの記憶はOB・OGとなって時を経ても臨場感を持って蘇る。 例えば日曜日のスタンドには懐かしいOBの姿を見つけることができた。創部1年目に入部し、チーム作りの要となってくれた山田光君(1989年卒)はインカレや箱根駅伝出場の経験はない。それでもインカレを戦う後輩の姿が見たくて駆けつけたとのことだった。昔話に花を咲かせながら懐かしいOBたちと観戦していると、学生時代との時空を超えた不思議な感覚となると語ってくれた。 国立競技場のスタンドにて順大時代からの恩師である澤木啓祐氏(右)と このことを踏まえても、関東学連の学生幹事が主体となって学生審判・学生補助員が運営し、学生のための対校選手権は、応援に駆けつけた部員たちとともに「する・みる・支える」の三位一体となった学生スポーツのあるべき姿を伝統として継承しているといえる。 ご来場いただいた多くの陸上ファンや関係者の方々を含めて、未来に向けて歴史と伝統の継承者となっていただいたと確信したからだ。 三つ目は、オリンピック開催のメイン競技場である国立競技場で開催された意義を深く感じたからだ。1964年の東京オリンピックで使用した旧国立競技場は、関カレの開催競技場として定着していた。私にとっても憧れの聖地であった。 2020TOKYOオリンピック開催が決定されてから、装いを新たに建て替えられる国立競技場建設期間は、横浜国際総合競技場や相模原ギオンスタジアムなど神奈川県の施設を利用させていただいた。特にコロナ禍にあって開催協力をいただいた相模原ギオンスタジアムには心から感謝している。 横浜国際総合競技場で開催された2015年は本学のエノック・オムワンバ(現・三菱重工アシスタントコーチ兼選手)が1500mで日本学生新記録(3分35秒69)を樹立した 今回オリンピックの翌年に、この国立競技場で選手たちの熱気あふれる戦いぶりを間近に見るにつけ、100回記念誌の過去の大会を彩った各ページの戦いと思いが交錯する。 どの大学のどの先輩方も、この年に、この国立競技場ですべての部員たちとともに学生たちで4日間の開催を無事やり切ったことに拍手を送ってくれているのではないかと感じたからだ(審判の東京陸上競技協会並びに医務室対応のドクター及び警備など関係者の方への敬意も含めて)。 さらには24回大会(1942年)が開催された後の25回大会は、太平洋戦争の影響で1946年となり、その間1943年には大学生らを兵士として動員した学徒出陣式典がこの国立競技場の場所から行われている。この時大学生であった方で、ご存命の方がおられるとすれば97歳から100歳となられているはずだ。すでにお亡くなりになられた方々に対して101回を共に戦った学生たちと共に心からのご冥福を捧げたい。 歴史は振り返る時間を作らなければ、ただ過ぎ去った過去で終わる、伝統はたとえ小さな種火であってもそれを絶やさぬ見識と知恵を出し合う支え無くしては継承し得ない。 変革を繰り返しながらも、101回大会を終えた種火は学生たちの胸の中で燃え続け、102回大会へと受け継がれてゆくことだろう。 来年もオリンピックの聖地、国立競技場で熱き戦いの炎が燃え上がることを楽しみにしたい。
上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任。

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