2026.10.30
1区のコースを実際に走る
上田監督は4回目のNHKラジオ解説と言うこともあり、年末のミーティングでは「今回がラジオ中継車に乗って解説を担当するのは最後になる。来年からは箱根駅伝の監督としてジープに乗車して君たちの走りを見守るからだ!」と熱く語られた。その時は少しだけ胸が熱くなったが、すぐさまそれは無理だろうとの思いが心を占めてしまった。回りの部員たちもたぶん同じ思いでいたことは、それぞれ目を見合わせてしまった時にわかった。
上田監督からは、「箱根駅伝の2日間はレースではなく、各区間の選手待機場所での過ごし方やアップなど時系列に沿って観察し、後日レポートにて報告するように」と言われていた。この1年間レポート提出には散々てこずらされてきただけに、手を抜くわけにはいかなかった。
なぜかというと、結果に対する要因・課題・課題解決の方法の3点が記載されていないと何度も再提出を求められてきたからだ。それでもそのような視点で選手待機場所や、ウォーミングアップからタスキの中継までの一連の動きを観察できたことは楽しかったと思い返してもいた。
午前4時30分。それぞれ身体をほぐして、スタートラインであろう場所に全員が集合し、監督からの指示を聞いた。「箱根駅伝前夜と2日間の箱根駅伝という目標とする大会に身を置き、さらには一夜明けて今、この場所に立っている。なぜ君たちはここに立ち、どこに向かって行こうとしているのか。それを今から1区のコースをそれぞれのペースで歩道を走ってもらう中で導き出してほしい」との話を受けた。
また一瞬心を熱くされたような気分にはなったが、すぐさま混乱の渦が生まれてしまった。なぜならば夢を描くことと現状との乖離が心をかき乱すからだ。選手たちがそれぞれスタートした後、8km地点の八山橋(当時の箱根駅伝1区で監督車と選手との合流地点)まで上田監督と車で移動した。
その車中で、そんな私の心を見透かしたかのように上田監督から「お前は可能性があるかないかという分別基準でしか考えていないだろう。スポーツの醍醐味は、僅かな、そして小さな可能性にかけて向かってゆくところにこそあるんだ。みんな、それぞれ走りながら一瞬でもチームとして出場し、タスキをかけて走れればいいなとの思いがよぎることだろう。その一瞬を皆が持ちより、少しだけ膨れた可能性をチームとして作る。その思いでチームをまとめ上げるのが大学の主務の役目なんだ」と語られた。
なんだかんだといっても、そんな監督の言葉に鼓舞されたり、乗せられたりで年を越し、新年を迎えてしまった。振り返るとインカレや箱根駅伝の最前線の現場をガッチリ体験させてもらっていることにハッとした。
昨年の関東インカレが終了した時点で上田監督から「おい奥田、インカレ1部に上がるには何点ぐらいが必要かわかるか?」と質問された時「わかりません!」とあっさり答えてしまった。あの時はいったいこの人は、何を考えているんだろうといぶかしがった。そのことを今となっては後悔している。
あの時も、自分には夢みたいな話でまともに答える気など無かった。それなのに監督の目論見は、1部に上がるためにはという可能性を模索していたんだなと気づかされた。
鶴見の駅で後期授業が始まるまでの5日間ほどフリー解散と予定されていた。駅の改札口で皆に「来年は箱根駅伝に出場してから解散だからな!」と声をかけたとき、階段を上る誰もが小さくガッツポーズで答えてくれたのがうれしかった。
根拠のない自信というべきなのかどうかわからない。創部して、あれやこれや難問苦難の連続であった。それゆえに、それを耐え何とか励まし合いながらヨタヨタと乗り越えてきた者同士の絆の強さを感じてしまったからだ。なぜかその時彼らの後姿が頼もしいと感じた。
可能性があるかないかに執着するのではなく、可能性を信じて日々を積み重ねることがこの1年間の課題だと心に誓った。
それから1年。第63回箱根駅伝のスタートラインに並ぶ15チーム。そこには初出場のプルシアンブルーのユニフォームに身を包んだ1区・福田正志(1年)の姿があった。
■山梨学大の初年度部員名簿
3年
奥田弘志 波崎(主務)
2年
芹沢喜徳 御殿場
1年
伊東宜明 八千代松陰(主将)
平野和邦 岐阜南
山田光 大月短付属
夏目勝也 北陸
※今回のコラムは先日の予選会終了後にOBたちが集まっての食事会での昔話を、総括して奥田君視点で書かせていただきました。
| 上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学名誉教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任し、26年3月に退任。 |
山梨学大陸上競技部元監督の上田誠仁氏による月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます!第74回「箱根予選会を巡る記憶の扉~可能性を信じて積み重ねた1年~」
秋といえども、いささか気温が高く推移するなか、駅伝シーズンが幕を開けた。盤石のレース展開で出雲駅伝を制した早大。その興奮の冷めやらぬ一週間後に新春の箱根駅伝出場権を懸けた第103回箱根駅伝予選会が開催された。1月2日の午前8時に東京・大手町読売新聞社前のスタートラインに並ぶ栄誉は、これから順位を決する勝負の場とは言え、所属大学の名を胸にして立つにふさわしい華やかな場所であることに変わりはない。箱根本戦も予選会も10と11という着順が分水嶺のごとく明暗を分ける。特に、予選会で11位以下となれば、本戦への出場が断たれるだけに、その現実が重く選手・関係者にのしかかってくる。今年も昨年同様に日本テレビ中継の解説を、関東学生陸上競技連盟副会長の大後栄治氏と担当させていただいた。私自身も予選会独特の緊張感を幾度も経験してきた。だからこそ、出場された選手のみなさんに今回の結果を受け止め、何か言葉にして伝えなければと思いいたって、以下のコメントを老婆心ながら述べさせていただいた。「今回出場権を逃したチームは残念でしたが、いろんな思いを持ち帰ると思います。ぜひ結果を受け止めて課題を持ち帰り、しっかりと語り合ってほしいと思います。心はかけられた言葉で育ってきます。未来は自分たちが口にした言葉で作られると思います。ぜひ、未来に向けた言葉で締めくくり、チームを鼓舞して一歩を踏み出してほしいですね!」[caption id="attachment_131366" align="alignnone" width="800"]
今回も箱根駅伝予選会は10位以内と11位以下で大きく命運が分かれた[/caption]予選会の解説を担当しながら、ふと創部初年度の思い出の記憶の扉が静かに開かれた。1985年4月に大学の強化育成クラブとして、箱根駅伝出場を目的に産声を上げた陸上競技部。8名の1年生でスタートを切ったが、新学期が始まった直後に陸上同好会から下宿を引き払って2名の学生が入部させてくださいと押しかけてきた。マネージャー希望の3年生・奥田弘志君、そして選手として一緒に頑張りたいと2年生・芹沢喜徳君の2名を加えた10名体制でチーム運営をすることとなった。ちょうど今回の予選会終了後に、初代主務の奥田君と初代主将の伊東宜明君、そして山田光君らと久しぶりにあれやこれやと語り合った。ここからは奥田君の目線で、当時の心象風景を書かせていただいた。1986年1月4日午前4時。まだ明けやらぬ読売新聞本社脇に車を止めた奥田は、スタートとフィニッシュを示す目印を確認しようと、目を凝らして歩いていた。白いフィニッシュラインのテープはすでにはがされていたからだ。前日まで各大学が死闘を繰り広げた第62回箱根駅伝の喧騒から打って変わって、あまりにも静寂なこの空間。そこに立ってみたところで、来年の箱根駅伝に自分たちのチームが出場できる実感など持てなかった。創部と同時に歩みを始めた1年生8名も、夏過ぎには4名が去ってしまった。自分と一緒に押しかけるように入部した芹沢も、やっと5000m16分台といったところ。現状、たった5名の長距離部員。今春入部予定者を加えたところで、到底予選会通過など望めそうにない、と心の中でひとり呟いていた(このとき、何名かの入学予定者も一緒に行動していた)。1月1日の午前練習終了後に車2台に分乗し、今春入学予定の数名とともに上田監督の母校・順大(当時は習志野キャンパス)に向かった。グラウンド脇の古いアパート(ゲストハウスと呼ばれていた)に宿泊し、箱根駅伝の往路を観戦。往路終了後は顧問の秋山勉さんの知り合いで、日大陸上部OB(箱根町在住)の故・西村和夫さんに紹介してもらったホテルの従業員寮のようなところに宿泊して復路を観戦した。昨年の関東インカレ前と同様に「優勝争いをするチームがどのように動くのか実際に体感するため」と上田監督が言うものの、あまりにもレベルの違う自分たちにとって、逆に意欲もそがれてしまいそうにも感じていた。実際、昨年の関東インカレ前のゴールデンウィークに、順大との合同練習の名目で参加した時もそうだった。あの時はジョグさえまともにつけないありさまで、情けなくてその場にいるのがいたたまれなかった思い出がよみがえる。総合優勝に向けたチーム全体の気運を高めるための集合にも、上田監督からの指示で参加したものの、学ぶというよりも気おくれの上積みにしかなっていなかった。さらにインカレ期間中も「トラック&フィールド全般で総合優勝争いをするチームから学べ」と上田監督から言われていた。国立競技場の順大の部員たちの後ろに座ってはみたものの、まったく違う世界感と、『月刊陸上競技』などの専門誌を飾るあこがれの世界をのぞいている気にしかなれなかったのが事実であった。自分は主務という立場上、選手たちをまとめて動かさなければならず、監督の意を汲んで“なぜそうするのか、どのような効果が期待されるのか”をかみ砕いて説明するのだが、どうも反応が鈍いことにいら立ってもいた。当時の初代キャプテン・伊東宜明もチームを引っ張ってゆかねばならない思いと、チームの熱量との差に戸惑いつつ迎えた新年だった。1区のコースを実際に走る
上田監督は4回目のNHKラジオ解説と言うこともあり、年末のミーティングでは「今回がラジオ中継車に乗って解説を担当するのは最後になる。来年からは箱根駅伝の監督としてジープに乗車して君たちの走りを見守るからだ!」と熱く語られた。その時は少しだけ胸が熱くなったが、すぐさまそれは無理だろうとの思いが心を占めてしまった。回りの部員たちもたぶん同じ思いでいたことは、それぞれ目を見合わせてしまった時にわかった。上田監督からは、「箱根駅伝の2日間はレースではなく、各区間の選手待機場所での過ごし方やアップなど時系列に沿って観察し、後日レポートにて報告するように」と言われていた。この1年間レポート提出には散々てこずらされてきただけに、手を抜くわけにはいかなかった。なぜかというと、結果に対する要因・課題・課題解決の方法の3点が記載されていないと何度も再提出を求められてきたからだ。それでもそのような視点で選手待機場所や、ウォーミングアップからタスキの中継までの一連の動きを観察できたことは楽しかったと思い返してもいた。午前4時30分。それぞれ身体をほぐして、スタートラインであろう場所に全員が集合し、監督からの指示を聞いた。「箱根駅伝前夜と2日間の箱根駅伝という目標とする大会に身を置き、さらには一夜明けて今、この場所に立っている。なぜ君たちはここに立ち、どこに向かって行こうとしているのか。それを今から1区のコースをそれぞれのペースで歩道を走ってもらう中で導き出してほしい」との話を受けた。また一瞬心を熱くされたような気分にはなったが、すぐさま混乱の渦が生まれてしまった。なぜならば夢を描くことと現状との乖離が心をかき乱すからだ。選手たちがそれぞれスタートした後、8km地点の八山橋(当時の箱根駅伝1区で監督車と選手との合流地点)まで上田監督と車で移動した。その車中で、そんな私の心を見透かしたかのように上田監督から「お前は可能性があるかないかという分別基準でしか考えていないだろう。スポーツの醍醐味は、僅かな、そして小さな可能性にかけて向かってゆくところにこそあるんだ。みんな、それぞれ走りながら一瞬でもチームとして出場し、タスキをかけて走れればいいなとの思いがよぎることだろう。その一瞬を皆が持ちより、少しだけ膨れた可能性をチームとして作る。その思いでチームをまとめ上げるのが大学の主務の役目なんだ」と語られた。なんだかんだといっても、そんな監督の言葉に鼓舞されたり、乗せられたりで年を越し、新年を迎えてしまった。振り返るとインカレや箱根駅伝の最前線の現場をガッチリ体験させてもらっていることにハッとした。昨年の関東インカレが終了した時点で上田監督から「おい奥田、インカレ1部に上がるには何点ぐらいが必要かわかるか?」と質問された時「わかりません!」とあっさり答えてしまった。あの時はいったいこの人は、何を考えているんだろうといぶかしがった。そのことを今となっては後悔している。あの時も、自分には夢みたいな話でまともに答える気など無かった。それなのに監督の目論見は、1部に上がるためにはという可能性を模索していたんだなと気づかされた。鶴見の駅で後期授業が始まるまでの5日間ほどフリー解散と予定されていた。駅の改札口で皆に「来年は箱根駅伝に出場してから解散だからな!」と声をかけたとき、階段を上る誰もが小さくガッツポーズで答えてくれたのがうれしかった。根拠のない自信というべきなのかどうかわからない。創部して、あれやこれや難問苦難の連続であった。それゆえに、それを耐え何とか励まし合いながらヨタヨタと乗り越えてきた者同士の絆の強さを感じてしまったからだ。なぜかその時彼らの後姿が頼もしいと感じた。可能性があるかないかに執着するのではなく、可能性を信じて日々を積み重ねることがこの1年間の課題だと心に誓った。[caption id="attachment_131366" align="alignnone" width="800"]
創部2年目で箱根駅伝へ初出場を決めた[/caption]それから1年。第63回箱根駅伝のスタートラインに並ぶ15チーム。そこには初出場のプルシアンブルーのユニフォームに身を包んだ1区・福田正志(1年)の姿があった。■山梨学大の初年度部員名簿
3年
奥田弘志 波崎(主務)
2年
芹沢喜徳 御殿場
1年
伊東宜明 八千代松陰(主将)
平野和邦 岐阜南
山田光 大月短付属
夏目勝也 北陸※今回のコラムは先日の予選会終了後にOBたちが集まっての食事会での昔話を、総括して奥田君視点で書かせていただきました。| 上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学名誉教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任し、26年3月に退任。 |
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