2026.06.02
5月30日の世田谷の競技場。日本グランプリシリーズ・MDCの男子800mで落合晃(駒大)が日本新を出すレースを見ながら「おちあーい!!!」と笑顔で大声を出して応援していたのが久保凛(積水化学)だった。1学年違うため、“先輩”だがトラックに入れば同じ種目で世界を目指す同志であり、これまでも年齢お構いなしにこうやって応援してきた。
「この風の中でさすがに日本記録はないやろうと思いながら応援していたのですが、まじか!って。風とか(言い訳に)言っていられないので、これからは風が強かったなんて言わないようにしないと。負けてられないです」
そう言って、18歳らしい笑顔を見せた。
苦しい社会人スタートだった。日本記録を持ち、日本選手権も2連覇。高校生にして東京世界選手権にも出場した。中学王者がサッカー日本代表の久保建英の従姉妹ということもあり早くから注目度は高かったが、高校3年間でさらに大きな注目を集めたといえる。
高校卒業後は大学進学ではなく積水化学に入社し、男子元日本記録保持者の横田真人コーチが指導するTWOLAPSを拠点に活動。社会人デビュー戦だった5月10日の木南記念は2分07秒47も要してしまった。
「ケガ明けで徐々に練習を上げてはこられていたのですが、ベストな状態ではなかったと思います。もっと練習しないといけないと感じていたので納得のタイムでした。300m通過の時点で『やばい』と思ったんです」
フィニッシュ後すぐに涙がこぼれ、同じように高校時代から日本トップクラスの活躍を見せていた塩見綾乃(岩谷産業)と川田朱夏(ニコニコのり)がすぐに慰めに近寄ってくれた。2人だから理解できる感情もある。その日は「体調不良」として、取材に応じられなかった。これまでどれだけ苦しい結果に終わっても、涙をこらえながら取材に応じてきたが、初めてのこと。代わって横田コーチが取材に対応し「練習はできていました。過度なプレッシャーもあったのでは」と話した。
確かに、別種目が行われるさなか、テレビカメラやフォトグラファーは待機している久保の姿をずっと追いかけ続け、その光景は異常に映った。それでも、久保は15歳の頃からプレッシャーのかかる立場で走り、注目を集めること自体「苦手ではなく応援してもらえてうれしい」とも話していたこともある。高校卒業前のインタビューでは、社会人として、「走ることが仕事になる」と“プロ”としての思いを示していただけに、少しだけでも本人の言葉で話したほうが久保のためにも良かったのでは、と思ったのも事実だ。世界に飛び出すようなスーパースターは、こうした重圧をはねのける力があり、久保もまたそんな選手になってほしいという個人的な思いもある。
ところが、久保はやはりただ者ではなかった。MDCでは2分02秒76をマークして優勝。これまでも高校卒業後は環境の変化に苦しみ、数年は苦しむ選手を何人も見てきたし、そのまま浮上できずにトラックを去った選手も少なくない。だが、久保は数週間でV字回復した。しかも、レース後のインタビューエリアでの第一声にもさらに驚かされた。
「まず、木南記念で全然うまくいかなくて、記者の方々にすごくご迷惑をおかけしてすみませんでした」
テレビ取材でもペン取材でも、この言葉から始まった。なんという18歳だろう、と思った。メディア対応が苦手になったり、恐怖心を持ったりしてもおかしくない状況にもかかわらず。
「TWOLAPSがやっている大会というのもありましたし、気持ちを切り替えて一生懸命戻そうと思ってやってきました。初めてのMDCで不安もありましたが、応援が思っている以上にすごかったです」
横田氏が明かす。「木南記念が終わってから3日間くらいは落ち込んで食事ができていなかったですから」。SNSやネットニュースのコメントは避けようにも自然と目に入り、心を痛めていたのだという。それでも、その後は合宿に入り、「ウチの選手が入れ替わり立ち替わり話してくれたんです」。新谷仁美(積水化学)や館沢亨次(DeNA)らが慰め、経験談を伝えた。久保も「みなさんが気を遣ってくださった」と前を向けたようだ。
「かわいい妹が入ってきてくれてチーム感が出てきたんです。それで立て直せたのもあると思いますが、それにしても本当にすごいですよ。普通ならずるずるといっちゃう可能性もあったと思います。まだ上京して2ヵ月くらい。生活に慣れるのもあるし、僕との距離感だってやっとつかみ始めるくらいでしょう」と横田コーチ。「まだ時間もありますし、日本選手権、U20世界選手権、アジア大会に向けて準備していきます」と語った。
「今日は自分の弱さも出ました。落合君に負けていられない。2分02秒まで巻き返せたので、日本選手権では自己ベストを出せるように頑張りたい」
まだ18歳、でももう18歳。この道で生きていくと決めた覚悟がにじみ出た5月30日という日は、歴史的レースだった男子800mだけでなく、いずれ振り返った時に久保凛にとって日本記録を出すようなレースと同じくらい大きな分岐点になるのかもしれない。
文/向永拓史
【動画】久保凛が見せたV字回復!フィニッシュシーンをチェック
#MDC
— 月陸Online/月刊陸上競技 (@Getsuriku) May 30, 2026
女子800m
🥇久保凛(積水化学)2.02.76
強い風もあり、アジア大会派遣設定(2.01.67)に届かずも、7位だった木南記念から見事に立て直す🔥 pic.twitter.com/MPdykwFiXt
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